さて少し間が空いてしまったけれども、単純すぎるモデルのままあまりいつまでも放置しておくと、それしか考えていないみたいでバカに見えるから(笑)先を急ごう。
前回の「3極モデル」から支那をバッサリ省いてしまった理由の多くは、一言で言えば「支那を入れると途端に話がややこしくなるから」というだけのことである。左側のヤルタ会談当時の図もそうだし、右側の冷戦期の図のほうもそうだ。
ヤルタ会談に支那代表として出て来ていたのはもちろん蒋介石なのではあるが、蒋の重慶政府というのは当時支那に幾つもあった政権の一つに過ぎず、延安の毛沢東、南京の汪兆銘やらその他地方軍閥の類まで含めれば「政権」なんぞゴロゴロあったわけで、どれか一つでもって《「中華民国」なる国家》を代表させてしまうと大なり小なり無理がある。そもそもそれらを当時の東アジアの勢力の力関係の中での《極となるプレーヤー》の一人だったとまで見てしまうと買いかぶりすぎることになりそうだし、特に蒋介石の場合は単にのちに「支那代表」の座を毛沢東に掠め取られるだけでなく、支那を追われた後も台湾で中途半端に生き延びていたりするのでますます扱いに困る。
西欧の左翼というのは、スターリンが独ソ不可侵条約によってヒトラーと取り引きしたことでソ連に対する幻滅を味わっているせいもあって、戦前の時点で既に古色蒼然たるインターナショナル路線とは袂を分かっている。彼らの場合、その後はもっと社会民主主義っぽい方向に行ったり或いはグラムシみたいなのに飛びついたりしたわけだが、そういう意味での思想的な「ソ連離れ」が日本の左翼に於いては西欧に比べてずっと遅かった。彼らにとっての転機になったのは、フルシチョフによるスターリン批判だったり、東欧の民主化運動へのソ連の弾圧だったりした(註1)が、日本の左翼の場合そうやって「ソ連離れ」したあとに飛びついた先がそれまで以上にまずかった。
※註1:右側の図について私はこれまで大雑把に「冷戦期の」という言い方をして来たけれども、コミンテルン史観が戦後日本の左翼の間で支配的だった時代というのは、上述のような具合で本当は大東亜戦争後のかなり短い時期だけだということになる。
「ソ連型ではダメだ」となって以後の西欧の左翼が先進資本主義国らしい社会主義のあり方をもう一回ちゃんと考え直そうとする方向に行ったのに対して、日本の左翼の場合はどちらかというと逆にマルクス主義がもともと想定していた一直線的な社会発展モデル(最初に原始共産制があって、奴隷制やら封建制やらを経て最後に共産主義社会に到達するという例のやつ)から取りこぼされた部分をどうやって掬い上げるか、みたいな方向に一生懸命になりすぎてしまったきらいがある。そういうことになってしまう背景には、勿論日本自身の社会構造が西欧キリスト教圏のそれと違っているという問題が何より先にあった(例えば「明治維新はブルジョア革命と見做せるか」みたいな話を延々ああでもないこうでもないやった挙句に「天皇制ボナパルティズム」などという珍妙な造語が生まれたりするように)のだろうけれども、それとは別に、日本の周りに先進資本主義国が一つも無かった点を挙げないわけに行かないだろう。
日本で殊更「民族主義」などというと何やら街宣右翼めいて聞こえるが、左翼が民族主義と結び付く傾向自体は世界史的に見ても別に珍しい事ではない。もともと弱小民族による自決権闘争やら反植民地主義闘争というのは「帝国主義」の対外膨張政策を敵視しているという点に於いて左翼と親和性は高い。スターリンのもとでコミンテルンが階級的利益ではなく《ロシアという特定国家の利益》を守る目的の為に周辺の衛星国を将棋の駒のようにコキ使うだけの組織に堕落したことへの批判を経た後の左翼にとっては特にそうだ。
それでも、西欧というのはもともと自分たちだけで大きな一個の閉じた経済圏や文化圏を作っており、とりわけ第2次大戦後は旧植民地を(結果的には)どんどん切り捨てていく形になったので、左翼にしても基本的に自分たちの先進資本主義社会の中だけで話が完結するのだからある意味気楽なものである。翻って日本の場合となると、何しろ周りが後進国だらけなので国と国との関係は専ら「日本がひとりで周辺国を侵略し搾取している」ような──多分に史実に反する──絵になってしまいがちである。とりわけ大東亜戦争に敗れて以後の日本は曾ての欧米列強の分まで《汚れ役》を引き受けさせられてしまった。
もともと民族主義勢力であったものがやがてソ連型社会主義の一党独裁体制を便宜的・形式的に取り入れてゆく傾向は、20世紀の序盤から中盤の東アジアに於いて極めて顕著だった。その雛形となったのが支那である(そうした要素は既に孫文の時代の国民党にも濃厚にあった。それが所謂「農村型革命」として完成を見たのは毛沢東が共産党の主導権を握ってからであるが)。今でこそ「我が国の特色ある社会主義」だ「ウリ式社会主義」だなどと後進国がマルクス主義の真似事を始めると碌な事にならないのは誰しも知る所だが、左翼の忌み嫌ってやまない所のファシズムといい勝負の野蛮で非人間的なこうした政治体制に対して日本の左翼が無節操なまでに寛容であったことは、先ほど述べたような日本の道徳的な「負い目」と無縁ではないだろう。勿論、「負い目」といっても左翼の立場から見ればそれはあくまで民衆から切り離され遊離した《日本という国家》の「負い目」であって、それを論い糾弾することに彼らが一種のカタルシスを覚えるらしいことは、所謂「自虐」史観が本当は自虐でも何でもないというのと同じことであるが。
こうした理由で、「ソ連型ではダメだ」となった後の日本の左翼陣営の一角にとって、支那がまことに有難い思想上の拠り所だった時代があった(註2)。彼らの眼にはあの「文化大革命」までが民衆による下からの改革に映ったらしい。「文革」を手放しで賛美していた「進歩的知識人」などは掃いて捨てるほどいる。学校教育の現場も例外ではなかった。70年代くらいまでは歴史教科書にも「文革」礼賛の言説が幾らも見られたものである。今では彼らは一様に頬かむりを決め込んでいる。例の「従軍慰安婦」が教科書に登場する頃までには、「文革」のくだりは教科書からすっかり消えてしまったそうだ。
※註2:ついでにいうと、支那に於いて四人組が打倒され「文革」が一転して否定された後も長い間《ボロが出なかった》のが北朝鮮である。ちょうど西欧の左翼がユーゴスラビアのチトーをもてはやしたのと同じような調子で、日本ではホー・チミンや金日成が礼賛された。左翼が「民衆史観」に傾けば傾くほど、弱小国のカリスマ的独裁者が株を上げた。同じ独裁者でも反共の朴正熙などは散々だったが。
左翼の話が長くなりすぎた。戦後日本の親米「保守」陣営から見た支那の位置付けについても触れておかなくてはならない。
東欧の多くの国々とは異なり支那はソ連の衛星国とはならなかった。共産党内で頭角を現した後の毛沢東が主導権を握るに当たって「モスクワ派」の徹底的な粛清を行ったのは有名である。殊にソ連でのスターリン批判このかた支那はソ連とはまことに仲が悪く、イデオロギー上の路線対立のみならず実際に国境紛争まで起こすほどの軍事的緊張関係にあった。支那を「共産陣営」としてソ連と一括りにしてしまうのは無理である。支那は寧ろ米ソのイデオロギー対立の埒外にあった。
冷戦期に於ける支那は左翼にとってばかり便利な存在だったわけではなかった。支那の外交の巧みさは、「共産陣営の盟主」だったソ連と敵対関係にある自らの立場を逆に利用して、本来自国にとって敵である「米帝」に自らを高く売り込むのに成功した点である。その絵を描いたのがキッシンジャーと周恩来だった。対外的には非同盟主義を売り物に全方位外交を行い、国内的には徹底的な一国社会主義を実践し、核保有、蒋介石の「中華民国」から椅子を乗っ取る形での国連加盟・安保理常任理事国入りを果たした支那は、米支修交──日本にとっては寝耳に水の──によって米ソ両国と並ぶ国際政治の極としての地位を不動のものにした。日本の大衆がパンダちゃんに熱を上げていた頃には日支両国の力関係は既に逆転していた。
支那の発言力は改革開放路線による経済発展とソ連の崩壊を経た今日にあってますます鞏固である。日本の相対的没落はパンダちゃんのせいではなく、日米「同盟」だけを頼みにして来た日本の「保守」派の政治的怠慢にこそ責任がある。なるほど大東亜戦争後の占領統治によって日本人を物理的にも精神的にも武装解除したのはアメリカだし、朝鮮がキナ臭くなるや一転して日本に再軍備を命じ、しまいには「安保タダ乗り論」やら日米「同盟」の「双務性」やらを次々と言い出したのもまたアメリカではある。しかしそのことはアメリカ様の言い分に唯々諾々と従って来た日本の「保守」政治の責任を些かも減じない。なるほど日本は再軍備こそしたが、遠くイラクやゴラン高原まで兵を送らされながら拉致被害者救出すら行う力を持たない。全てはアメリカ様の御意向次第である。
なるほど国家の主権保全の根幹を他国に頼りひたすら経済建設に勤しむことができなかったら戦後日本の経済的再興が少なからず遅れたであろうことは一面では事実だろう。しかし現在の繁栄が今後も続く保証など何処にも無い。アメリカ様にくっついていればこの世は安泰という以上の立国理念を持たない「保守」こと親米派と、ただ念仏のように反戦平和・護憲を唱える左翼およびサヨクとは、このようなまことに危なっかしい繁栄にしがみ付いているという点に於いて同じ過ちを犯している。自主国防が無ければ自主外交もあり得ない。自前の軍事力に裏打ちされない「平和」外交から抜け出さぬ限り日本は永久に「世界の財布」に甘んじなくてはならない。