三重県の件からいったん離れます。前々回、在日に対する「差別」に関連して 「保守思想 - Conservatism」のMikeRossTkyさんからコメントを頂き、その返信に私は以下のように書きました:
もしも「差別」という語が彼ら在日の言う通りの意味ならば,「車の運転がしたかったら運転免許を取りなさい」というのも差別,「お酒は二十歳になってから」というのも差別に該当することになるでしょう.
在日に対する「差別」についてのみ考えるなら「帰化か帰国か好きな方を選べ」で十分でしょう。特別永住資格なるものを頼りに日本人とも韓国人ともつかぬヌエ的存在として日本社会にあり続ける道を自ら選んでいるのは彼ら在日ですから。但し此処で「差別」そのものからひとまず離れて在日の今後のあり方にまで踏み込もうとすると これだけでは不十分で、どうしても日本国籍取得の意味やその結果について考えざるを得なくなります。
「権利としての国籍取得」を言い出す理由
先日読んだ記事で興味深いのがあったのですが、
コリアン・ザ・サード: 日本国籍取得権という罠
詳細はリンク先で全文をお読み頂きたいのですが、統一日報にさる02/15付で
在日同胞のホットポテト 帰化-誰のための選択か=下=
という記事があり(ちなみに「中」はこちら。「上」は既に見つかりませんでした)、上述の「日本国籍取得権という罠」で筆者の新井知真さんはその中から特に以下のくだりを問題視しておられます(太字は私が付けたもの)。
永住者から利権者への動き
毎年、約1万人以上の在日同胞が日本国籍を取得していっており、父母両系主義に変わった1985年の日本の国籍法改正で同胞家庭で日本国籍を継ぐ子どもが段階的に増加した。そして婚姻の90%くらいが日本人との国際結婚となっている。現象面からして確実に特別永住者が減少し、在日韓国人を支えている基盤そのものが変化している。
少子化・老齢化社会への突入とグローバル化時代を迎え、日本社会の変化が余儀なくされ、少なくとも30~60年後には外国人の割合が増えて多民族・多文化共生社会へ移行せざるを得ないことを踏まえると、今後の日本国籍は権利として取得する時代に差しかかっているといえよう。数年前から、少数の在日韓国人および日本人の一部から「在日コリアンの日本国籍取得権確立」へとの動きがあることもその証左である。
いずれにしても、既成組織・団体が在日の日本国籍取得問題に真正面から取り組まざるを得ないことは確実だといえよう。
副題、「権利」ではなく「利権」と書いているのは意図的にやっているのかどうか分かりかねますが、あまり深読みはせずにおきましょう。
それはそうと、上の一節の言わんとする所を纏めれば、
- 今後は外国系日本人がどんどん増えて行く
- だから在日も自らの権利保護の為に日本国籍を取らないと損だ
ということ。此処で前々回取り上げた三重県の「在日マンガ」の記事に以下のようなくだりがあったのを思い出して頂きたいのですが、
思い悩みながらも韓国人として生きる決意を固め、共生があたりまえの日本社会に変えていくことこそ自身の生きる道だと気づく。
と、こういうのが日本社会のあり方に嘴を挿みたがる在日の典型的なスタンスだったのでした。ところが皮肉にもそうやって「共生があたりまえの日本社会に変えてい」った結果として、逆に「排除され迫害されるアウトサイダー」としての彼ら在日自身の立ち位置のほうが危うくなってしまった、と。「何故帰化しないの? 他の国から来た人たちはみんなそうしているよ」という至極尤もな疑問への回答が用意できなくなってしまった、ということです。
これまで在日が日本社会に於いて受け続けて来たと主張する様々な「差別」なるものは、元を糺せば彼ら在日が日本に「同化」されること──これ自体が在日の作り出した虚構である──を拒むと称して日本社会の内部に閉ざされたコミュニティを作り、自らの「民族のアイデンティティ」なるもの──これまた多分に虚構めいた──の維持に汲々として来たことが招いた当然の帰結に過ぎません。日本社会の側がこれに溶け込もうとする者を排除して来たわけではない。閉ざされていたのは在日社会の側です。これまでの「在日への差別」という虚構は、まずこの点を誤魔化すことから始まっていました。
そのことへの一片の自覚も無いまま、今度は彼らは「多民族・多文化共生社会」──ある種のいかがわしさを孕んだ言葉ですが──へと変容しつつあるらしい日本という国の国籍を「権利として取得」しようと言う。「バスに乗り遅れるな」とばかりに、です。
《権利主張型在日》が日本国民になったら
この点について、上述のコリアン・ザ・サード: 日本国籍取得権という罠にはこう述べられています:
…権利としての国籍取得という言葉からは、日本を愛し、その社会で生きていくという決意は見て取れません。確かにこれからの日本社会との付き合い方を真正面から考える必要があることは同意ですが、従来の価値観の変容なくして、彼らの日本国籍取得には反対です。日本国籍を取得したいのならば、今の制度のままでも充分にできます。わざわざ日本国籍取得の権利という言葉を持ち出してくるところに、権利主張型在日という存在を連想してしまい、応援する気が失せてしまいます。
民団新聞統一日報の記事で謂う所の日本国籍取得の「権利」とは、正しくは国籍取得以前の外国人としての権利であって日本国民としての権利とは異なります。しかも上に「日本国籍を取得したいのならば、今の制度のままでも充分にできます」とあるように日本社会がその「権利」を侵害していたわけでも何でもなく、在日の側が勝手にその「権利」の行使を拒み続けて来たまでの話。
上の民団新聞統一日報の記事の一節にも殊更「永住者から利権者へ」などという標題が付けられているところを見ると、おそらくこの記事を書いた民団新聞統一日報の記者も両者の違いを明確に意識しないままで書いているか、或いはそこの所を意図的にぼかして書いているかのいずれかでしょう。
余談ですが、上の点、私自身はおそらく後者だろうと思っています。「国民の権利」にまで踏み込んでしまうと、それと表裏一体の関係にある「国民の義務」について言及しないわけに行かなくなるからです。その昔、何処かの国に「国に何をしてもらうかではなく、国に何をしてやれるかを考えろ」と言った大統領がいたそうですが、彼ならこうした人々を自国に迎え入れることを望んだかどうか。
問題は、こうして新たに日本国籍を「権利として」取得した元・在日が、書類の上だけでなくその精神に於いて真に日本国民たるに相応しい資質を備えているとは必ずしも言い難い点にあります。今まであちこちのblogで指摘されている事ですが、例えば以下のような例をご記憶の読者は多い筈です:
「地方参政権」へ邁進 初当選の白真勲氏 / 民団中央を訪れ表明 (民団新聞 2004/07/14)
11日に実施された参院選挙で、民主党比例区から立候補した白しんくん(真勲)氏が当選を果たした。
初の立候補で20万3千票以上を獲得し、個人票でも22位につけた白氏は12日、あいさつのため民団中央本部を訪れ、呂健二副団長らと懇談、この間の声援に対して謝意を表した。
白氏は「これからがスタート。在日に勇気と希望、元気を与えたい。在日も韓国系日本人も結集し、みんなの力で地方参政権を獲得しよう」とアピールした。
呂副団長は「在日という出自を明らかにして選挙に臨み、拉致問題などの逆風も懸念されたが、見事当選を果たした」と激励しながら、「ねじを巻き直して在日の参政権運動にともに邁進しよう」と協力を求めた。
白氏は在日韓国婦人会が主催する東北(1日)と関東(9日)地区の研修会をはじめ、東京、大阪など各地の街頭でも精力的に支持を訴えた。「日韓の友好関係は大事だ」と握手を求める有権者が多く、好感触をつかんでいたという。
「在日が日本の政治に関わる上でのスタンス」の実に分かり易い例をこうしてweb上に残してくれた白真勲には幾ら感謝しても足りません。日本国民としての資格で、日本国民の投票によって当選した白が、当選翌日に民団本部にいそいそと出向き、自分に投票したわけでも何でもない在日に「謝意」を表する異常さもさることながら、国会議員としての自らの使命を「在日の地方参政権獲得」と規定する。しかも「在日も韓国系日本人も結集し、…」と明言しているように、日本への帰化の有無に関係なく全ての「韓国系」を在日の政治的利益獲得の為に動員しようとしている点に注目しないわけに行きません。
もう一つおまけに(←それにしても、こういうのって悉く民主党だな…)
Irregular Expression: 元在日韓国人 平田正源候補が先ず明らかにすべき事 (2004/12/03)
帰化条件の緩和は是か非か
上述の「コリアン・ザ・サード」のエントリでは必ずしも「帰化条件をどうすべきか」という点にスポットライトを当てたかったのではなかろうと思いますが、折角の機会ですので触れておいた方がよかろうかと思います。
私自身は在日の帰化促進そのものには概ね賛成です。「概ね」と断り書きを付けておかなくてはならないのは、「帰化条件の緩和」なる語が伴う曖昧さ故です。
「在日への差別」ですとか「在日の権利」ですとかを言い立てる側への反論として私がしばしば「車の免許」を例に挙げるのは上述の通り。「車なら今まで散々無免許で乗り回して来て、運転には自信があるから運転させろ」は通りませんよ、ということ。特別永住資格などはさしずめ「私道なら無免許で走っても大目に見てやろう」といった代物。どうしても公道を走りたかったら免許取りなさい、と。
ここで「免許は取りたいけれど受験料が高すぎて」とか、「試験が年に2回、しかも平日にしか無いのでは」とか、「最寄りの試験場まで行くのに半日掛かりでは困る」とか、そういう意味での免許取得の障碍があるなら、これは行政の側が受験者の便宜を図ってやることが考慮されるべきでしょう。しかし「免許を取り易くする」為に「試験の難易度を落とす」のは誤りです。きちんと運転技術を習得し、交通法規を遵守することを学んだ者にしか、免許証は発行されるべきではありません。
日本国籍もこれと同じことです。「帰化条件の緩和」そのものは結構でしょうが、「こんなのを日本国民にしてしまって大丈夫なのか」という手合いにまで安易に国籍が与えられるべきではありません。その辺をきちんとしておかないとどういうことが起きるかという見本が、他ならぬ上に挙げた選挙の例でしょう。
おまけ。
受け取り方によっては些か揚げ足取りめいて聴こえる虞があるので、本当は書くのを少々躊躇ったのですが、
朝鮮民族であることを誇りにし、韓国に愛着心を持つ人に対しては、帰化するべきだとは思いません。
のくだりについて。私は別に「朝鮮民族であることを誇りに」する者が日本国民たり得ないとは考えていません。ケルト系日本人でもよいし、朝鮮系日本人であっても一向に差し支え無い。極端な話、たとえ日常生活に於ける意思疎通の大半を朝鮮語で行い、朝鮮風の料理を作って食い、朝鮮の酒を飲んで暮らしていても(そうすることを別に推奨はしないのでお間違え無く)、自分が日本という国家に帰属しこれに参加しこれを形成しているという自覚さえ持てるならば、その人が日本国民たる上で何ら支障はないと考えます。その見本のようなケースが洪思翊でしょう。
まだ大尉であったころ、息子の洪国善が近所の悪童から「チョーセン、チョーセン」とからかわれたとき、大英帝国に虐げられても誇りを失わないアイルランド人の例をひき、「どんなときでも必ず『私は朝鮮人の洪国善です』とはっきり言いなさい。決して『朝鮮人の』を略してはいけない」と諭したという。
そんな信念の人だったから、日本風の姓に改名などもちろんせずに一生を終えました。
指揮官になると常に日本兵の前で、「自分は朝鮮人の洪思翊である。唯今より天皇陛下の御命令により、指揮をとる。異義のあるものは申し出よ」と初訓示したそうです。
全ての問題の根幹は、在日社会に蔓延する、もしくは在日個人々々の中に根強く染み付いている、「日本に帰化せよということは朝鮮人としてのアイデンティティを捨てよというに等しい」という幻想にあります。
余談というか、念の為に補足。上で洪思翊が自ら「朝鮮人」と名乗っているのが如何なる文脈に於けるものかについて、本当は私は軽々に判断できないと思っています。これが「五族協和の理念のもとで他の民族と対等たるべき朝鮮民族」を指すのか、逆に「亡国の民」または「将来主権国家として蘇るべき朝鮮に帰属する者」を指すのかは、よしんば「天皇陛下の御命令により…」のくだりを字面通りに受け取ったとしてもなお一定の疑問の余地が残りますし、それどころか洪思翊に於いて両者が必ずしも排他律でなかった可能性まで考えてみる必要があるでしょう。
こういう時、例えば「ナショナルアイデンティティ」という語は「ナショナル」が国家の意味なのか民族の意味なのか、その意味する所が広すぎていつも困るのですが、もっとも私自身、正直に言うと日本語で書く時にも「民族」の話をしたいのか「国家」の話をしたいのかの線引きを敢えてぼかして書きたい場合が少なからずあり、そういう時には意図的に「日本人」なる語を使っておくというズルイ逃げ方をしばしばします。従ってその線引きについて、あるいは逆に「日本人」という語の意味の輪郭について、今此処であまりうるさい事を言っても私自身にも残念ながら十分明確な解答は用意されておらず、話が混線するばかりでしょうから深くは触れずにおきます。