「ほっ」と。キャンペーン
<   2007年 02月 ( 6 )   > この月の画像一覧
米下院慰安婦決議案のこと ─議員宛メールもよいけれど─

マイク・ホンダらの慰安婦決議案の件で、「決議案の採択に反対してくれそうな下院議員宛にメールを送る」よう呼び掛ける動きがあるというのを読んだ。日本という国の名誉を思う気持ちと努力はそれなりに評価したいが、残念ながら私は乗る気になれない。



事は単に同決議案の可決成立を阻止すればよいという性質のものではない。2/15の米下院外交委亜太小委では決議案に反対した議員もいたそうだが、こうした議員の主張する所とて所詮「日本は既に第2次大戦に於ける自らの過ちを認め何度も謝罪して来たのだからこれ以上叩くべきではない」という線を越えるものではない。日本を利するか害するかに関わり無く、それが「慰安婦とは職業売春婦であって断じて所謂『性奴隷』などではない」という基本認識を共有しない者である限り私はこれと手を結ぶことはできない。それでは我が先人らの無実を主張しその汚名を雪ぐことにならない。



なるほど「敵の敵は味方」という考え方もあろう。仮にこの問題を単なる外交マターとしてのみ見るならそれもよいかも知れない。しかし今問われているのは国家の利益ではなく名誉である。《日本という国家が組織的に婦女子を強制連行し性的奴隷状態に置いたという根拠無き嫌疑》そのものを晴らさなくては何の意味も無いばかりか、「日本は既に謝罪したのだから本件は解決済み」なる主張の持ち主に日本国民自ら声援を送るが如きは却ってアメリカ輿論に「誤ったシグナル」を送ることにすらなりかねない。



敢えて言うが国家の名誉は国家の利益に優先する。国家の利益を守る行為に於いてはさまざまな手練手管もあろうが、国家の名誉を守る戦いに於いて自らの原理原則を枉げることは断じてあってはならない。



まずは政府をして河野談話を公式に撤回せしめないことにはどうにもならない。つい先日も某報道番組がホンダとのインタビューを放映したそうだが、記事に曰く、



米下院に慰安婦問題をめぐる対日非難決議案を提出したマイク・ホンダ議員(民主)が25日、フジテレビの「報道2001」に中継で出演し、決議案が「日本軍による強制的な性奴隷化」などと軍による強制連行を一方的に断定している根拠について、「官房長官談話が出て、首相が謝っている。実際に(強制連行が)なければどうしてそういうことが起こるのか」と述べ、平成5年の河野洋平官房長官談話を挙げた。


米国民であれ第三国の人々であれ、河野談話の背景を知らぬ者がこの言い分を聴いてもっともだと思うのは無理も無いではないか。上の記事には続いて



これに対し、日本側の出演者は「日本政府に謝罪を求めながら、強制連行の根拠を『日本の首相が謝罪しているからだ』というのは論理矛盾だ」(山本一太参院議員)などと反論。日本政府の対応にも注文が相次いだ。


とある。記者氏には「『日本政府の対応にも』とは、ものごとの順序が逆ではないか」と申し上げたいが、ともあれ山本氏の指摘は有効とは言えないにせよ少なくとも示唆的である。即ちホンダが河野談話を根拠に日本国首相に「政府を代表して」謝罪するよう求めている以上、ホンダは河野談話を「政府を代表して」の謝罪とは見做していないのだから、日本政府が今から河野談話を撤回してもホンダ側はそれを以て「日本政府が見解を覆した」と言うことはできない筈である。あとは日本政府がその一歩を踏み出せるかどうかに全てが掛かっている。どうすればその一歩を踏み出させることが出来るかに心を砕いた方が健全だと私は思う。



以下 愚痴として


マイク・ホンダは単に「無知な正義漢」に過ぎないと私は今のところ思っているが、日本人の中に彼を「確信犯的な反日活動家」だと見做す向きもあろうことは想像に難くない。この点、果たしていずれであるかを問うてみてもさほど意味は無いと思う。



「反日」を云々するなら、もともとアメリカという国じたいがここ100年来ずっと反日である。かの国を反日たらしめるにあたって支那のプロパガンダなどは寧ろ副次的な要因でしかない。



日本人にしてポーツマス条約以来の日米関係史を省みて猶この点を理解できぬ自称「保守」の何と多いことか。「同盟国のアメリカがこんな決議案を」などと今更のように言い出す輩は大抵これである。彼らは畢竟GHQ史観の側に立つ者でありアメリカ的戦後民主主義の崇拝者であるという意味に於いてサヨク──いやこの場合は「左翼」と書いてもよいかも知れないが──と大同小異である。果たして彼らが大東亜戦争終結までのアメリカと現在のアメリカは別だと思っているのか、それとも逆に日本の側が大東亜戦争を境にそれまでとは正反対にアメリカと「自由と民主主義という価値観を共有」する国に生まれ変わったと思っているのかは私の知る由も無いが、そのいずれであるにせよ彼らの歴史観は1945年を境に捻じれている。或いは1945年の時点に断層を生じている。彼らにとって守るべき日本とは煎じ詰めれば戦後の日米「同盟」のもとでの日本だけである。かかる人々に大東亜戦争の大義や祖国の名誉を説いてみるだけ虚しい。せめて今回の一件が単なる親米を保守からふるい落とすきっかけになってくれることを願うばかりだ。



愚痴ついでにもう一つ


先の米下院議員宛メールの件を巡って、中には「マイク・ホンダの日系米人としての素性の怪しさ」みたいな話をしだす恥知らずな日本人までいたらしい



彼らのやっている事と、先日かの「竹の森遠く (So Far from the Bamboo Grove)」がアメリカで問題になった折にその著書の内容と全く無関係な人格攻撃──「著者の父は戦犯」といった類の──に明け暮れていた韓国人・韓国系米人のやり方とで、その品性に於いてどれほどの違いがあるか。しかも、「重要なのはマイク・ホンダの主張の誤りを糺すことであって彼の素性を暴くことではない」などと、よりにもよって日本側に好意的な日系米人に懇々と諭されている姿など見せられては、もはや大東亜戦争の大義どころではあるまい。日本人はかくも堕落したのだ。私も反反日キャンペーンは数多く見て来たし時に携わっても来たが、これほどの寂しさを味わったことは曾て無かった。


[PR]
by xrxkx | 2007-02-27 01:41 | 時事ネタ一般
「島が返るまでが竹島の日です」とか。

あるいは「不法占拠は実効支配に含まれません」とか。昨日の竹島の日、つつがなく日程を終えたようで祝着。少々つつがなさすぎの感もありますが。



竹島領有権に関する韓国側の主張が歴史的に見ても国際法の面から見ても根拠薄弱であることや、所謂「海洋主権宣言」なる海賊まがいのやり方については、既に何度も触れており他blogでもあちこちでやっているでしょうから繰り返しません。肝要なのは日本側がその原理原則を貫くことに尽きます。即ち



  1. 竹島は歴史的にも国際法上も我が国固有の領土である。

  2. 我が国は国際司法裁判所に於ける竹島領有権問題の平和的解決を一貫して呼び掛けている。全責任はひとえにこれに応じようとしない韓国側にある。

  3. 韓国側がどうしても国際司法裁判所での解決を望まぬ場合、この問題は国連安保理に諮られる。

  4. 領土回復の為の武力行使は自衛権の範囲内であって現行憲法に抵触しない。


これまで何度か書いて来ているように、私は「竹島を極東のフォークランドにせよ」と言い続けています。即ち最終的には武力なくして竹島問題の解決はあり得ないと考えています。無論これは「日本側が武力行使も辞さない姿勢を示さない限り韓国側が外交的手段を通じての問題解決に応じる可能性はゼロである」という意味に於いてであって、対韓武力行使という事態が実際に生じるかどうかについては「あくまで韓国の出方次第」という態度でいなくてはなりません。



国の主権と尊厳は、それを守る為に如何なる犠牲をも厭わない覚悟と実践を伴う者にのみ与えられます。必要なのは国の主権護持に関する国民のコンセンサスを確立することです。政府の腰のひけた対応を詰る前に、まず国民ひとりひとりが竹島問題を自分自身の問題として捉える社会的気運が醸成されなくてはなりません(このことは拉致問題に関しても同様であるのは言うまでもないでしょう)。




以前「嫌韓という…」でも触れたように、韓国の対日政策のでたらめさ加減はなるほど今や広く国民に知られる所とはなりました。竹島問題もまたその一典型です。しかしながら、そのことが日本国民の主権意識を高めるカンフル剤としての役割を十分に果たせているかといえば、残念ながらまだまだ現状はお寒い限りだと言わざるを得ません。



この点、私たちは《敵》のやり方からもっと多くを学び得る筈です。これまで何度も触れたように、韓国側は竹島の「紛争地域化」を非常に警戒しています。彼らは竹島の「実効支配」──不法占拠は何年続けても国際法上は実効支配とは認められないのだが──を続けることでその既成事実化を図る以外に戦略的選択肢を持ちません。彼らが一貫して国際司法裁判所での決着を避け続けている所以です。ですから韓国側は本来なら日本側の領有権主張に対しては黙殺の一手あるのみ、の筈です。ところが、かの国民がそうした情勢にも拘わらず世界中の到る処で「独島は我らの土地」なるパフォーマンスを繰り返してしまうのはご存知の通りです。これは冷静に見れば戦略的に墓穴を掘っているとしか言いようが無いのですが、彼らが何故ついついそうしてしまうのかを省みるに、以下の3つの動機による面が大きいでしょう:



  1. およそ争議というものは声の大きい側が勝つという彼らの社会慣習

  2. 彼らが日本側による竹島領有を「日帝」による韓国「強占」の経緯とワンセットで考えていること

  3. 竹島周辺海域の水産資源および存在の噂されているメタンハイドレートなど地下資源を巡っての国益意識


このうち(1)と(2)に関してはこれはもう彼らのお国柄としか言いようの無いものであってあまり真似したくありませんが、問題は(3)です。韓国に於いて「独島守護」がカッターナイフおじさん(=ソウル市議・崔在翼)や焼身自殺おじさんや指切りおばさんのような「イッちゃってる人」の間にとどまらず汎国民的な気運にまで育ち得るのは、こうした実利的側面がTVや紙媒体などメディアを通じて広く国民に宣伝されている事実に負う所が少なくあるまいと思います。彼らに大いに学べというのは、こうした部分です。



今まで「嫌韓」がネットの外にさほど浸透しなかったのは、「嫌韓」の持つ2重の欠陥ゆえだと言ってよいでしょう。



一つには「嫌」というのはあくまで「わたくし」の感情に過ぎないこと。「お前が韓国を嫌う理由はよく分かった。でもそれは俺には関係ない」と言われてしまえばそれで終わりです。



もう一つはこれまで「嫌韓」が韓国の《反日》にばかり光を当てすぎたこと。これまた「いいじゃないか、好きにさせておけば」と言われてしまえばそれまでです。活貧団のおじさんがどれだけ日の丸を食いちぎっても、おおかたの日本人にとっては別に痛くも痒くもないわけです。反日ヲチも結構ですが、それだけでは一種のゲテモノ趣味の域を出ません。



これからは特亜の《反日》だけではなく《害日》にもっと光を当てたほうがよい。竹島問題にしても然りで、竹島近海の「共同管理水域」で実際には韓国側のやりたい放題を黙認してしまっていることが、山陰地域の水産業にどれくらいの実害を与えているか、ですとか、ひいては「あなたのお宅で毎日食卓に上るお魚の値段にこれだけ響いて来るんです」といったような、《お茶の間を攻略できるアピール》の仕方を考えていく必要があります。



余談ですが、こういうやり方が非常に「うまくいった」例として80年代の野党側による消費税(当初は売上税といったが)導入反対攻勢がありました。80年代というのは、国鉄民営化による社会党-総評ブロックの瓦解が革新陣営にとどめをさした《55年体制の終わりの始まり》の時期でしたが、その時期に階級政党としての左翼が「市民の政治参加」なる謳い文句のもとで左翼からサヨクへと変貌し時流に適応してゆく上で、消費税の件が小さからぬ役割を果たしたと言ってよいでしょう(もう一つには、その少し前に参院比例代表制が導入されたことでミニ政党が乱立するという受け皿が既にありましたが)。



竹島といえば一部で有名な「竹島まんじゅう」の件。私が読んでいる某メルマガで随分前に流れていた記事から。「産経新聞の昨日の大阪朝刊にのみ掲載されていました」とのこと。ネット上のソースが無いようですが…。こういうの、メディアはもっとちゃんと流すべきだと思うのですがね。



土産「竹島ものがたり」商標登録 特許庁、一転認める(産経 07/01/30)

日本固有の領土・竹島(島根県隠岐の島町)を冠したまんじゅう「竹島ものがたり」をめぐり、「日韓両国に無用の混乱を招く」として商標登録を認めていなかった特許庁が、一転して登録を認めていたことが29日、わかった。


出願者の反論を前に、自ら調べをやり直すことは異例で、同庁は「調査不足だった」と審査の不備を認めている。


申請したのは東京の菓子みやげ問屋「大藤」で昨年12月下旬、日韓両国に混乱を招くため商標登録できないとする拒絶理由通知書を特許庁から受け取っていた。


通知に対する反論の意見書は1月末が提出期限で、同社が反論の準備を進めていたところ、29日までに登録を認める「登録査定」が送られてきた。


登録査定には「拒絶の理由を発見しない」として、「登録すべきものと認める」と当初と異なる内容が書かれていた。



特許庁の態度が相変わらずだなぁと。そもそも「無用の混乱」とは何たる言い草か。もともと「混乱」しているのはひとえに日本政府が竹島問題を巡って毅然たる態度で自らの原理原則を貫いていないからであって、まんじゅうが悪いわけではないでしょうに。それを言うなら、つい最近も北方領土を巡って一部メディアが盛んに書き立てていた「麻生外相、三島返還論に言及」みたいな歪曲報道の極致こそ無用の混乱と謂うのです。



ところでこのまんじゅう、上の産経の記事には「東京の菓子みやげ問屋」が商標登録出願者だとしかありませんが、製造元は島根なのでしょうか。よく分かりませんが先日読んだ「博士の独り言」なるblogによりますと



「竹島ものがたり」)読者提供

読者から提供いただいた写真を拝見し、筆者も購入。毅然とした焼き菓子に感銘を覚えている。手元に1、2箱を常備し、新聞社などへ訪凸する時の手土産に、また、訪ねてくる後輩に持たせたいと思う。「12個入り、840円」。問合せは、隠岐特産センター(電話08512-2-0787)とのことだ。同特産センターと筆者との間には利害関係は無い。ただ、この銘菓がベストセラーとなり、1人でも多くの国民に「竹島」を認知、確認する機縁になれば、と願う。


と、販売は島根県内で扱っているようです。「毅然とした焼き菓子」という言い回しが面白かったので引用してみたよ。興味のある方は上記連絡先まで。


[PR]
by xrxkx | 2007-02-23 23:39 | 時事ネタ一般
大東亜戦争の大義と戦後日本の「平和主義」について

前回「大東亜戦争に於ける日本の大義」という言い方をしたけれども、これがまた誤解を招きかねない表現なので少し整理しておきたい。こういう場合の誤解というのは、的外れな反論も面倒だが、的外れな賛同はもっと困る。


先に言ってしまうと、私は何も大東亜戦争を「日本の正義の、米英なりもっと広い意味での聯合国なりの悪に対する戦い」だと言いたいわけではない。無論あの戦争を戦った一方の当事者にすればあの戦争はかなり本気で「暴支膺懲」の戦いだとか「鬼畜米英に対する聖戦」だったろうし、それが悪いとは微塵も思わないのだが、ただ、戦後60年も経った現代を生きる私たちがあの戦争を振り返り総括する際にそれ一辺倒で済ませてしまうというのは、それはそれでやはり理性の怠慢であって、あちらの世界の方々が「あの戦争は軍国主義の起こした侵略戦争でした、アジアの人々に多大な迷惑を掛けました、戦争は悲惨だからいけません、これからはデモクラシーの時代です、戦争抛棄で平和主義でいきませう」とか言っていた/いるのと同じくらい困ったものではある。


私が前回触れた意味での「大東亜戦争に於ける日本の大義」とは、一つには日本が対米開戦に追い込まれる経緯──あるいは支那事変も同じことかも知れないが──を巡っての「お前ら何を被害者ぶってるわけ?」という思いであったり、また「人道に対する罪だの平和に対する罪だのとお前らに言われる筋合いは無い。それを言うなら通州事件やら東京大空襲やら原爆投下やらシベリア抑留のほうはどうしてくれる」という思いであったり、ましてややってもいないことまでやったと言われてはたまらんという話であって、そこの所を東京裁判このかたことごとく誤魔化して済ませて来ているから今からでも正すべきは正せと言っているに過ぎない。GHQ史観の信奉者の目にはそういうのが「歴史修正主義」に見えるらしいが、言い分は勝者の側にばかりあるのではないことは、かのパール判事の例を見れば明らかである。それをケシカランと言うほうこそヒトラーも顔負けの "Macht ist Recht" というか「勝てば官軍」主義である。




「核兵器の登場によって正義の戦争というものはあり得なくなった」と言ったのは確か湯川秀樹だったか。無論彼の言わんとする所が分からぬわけではないが、ただ、核の出現以前か以後かに依らず、そもそも戦争というものを「正義の戦争」と「そうでない戦争」とに分けることに果たしてどれだけの意味があるかと私は寧ろ首を捻りたくなる。そこはまぁ、湯川ほどの知識人にすらこうした発言をさせるだけの時代の空気というものが、曾ての「一億総懺悔」の時代にはあったということかも知れない。ことほど然様に時代の空気というものは極から極へ振れ易い。


戦争は一種の必要悪である。人性というものを根こそぎ変えてしまうことでも出来ない限り戦争が世の中から消え去らないであろうことは、「世界で最も古い商売」たる売春が無くならないであろうこととよく似ている。戦争そのものを無くすことが事実上不可能だからこそ、それに一定のルールを設けタガを嵌めておくことで戦争のもたらすリスクを可能な限り小さく抑える努力を人類はして来た。勿論これは戦争そのものを未然に防ぐ努力とはまた別次元で論じられるべき問題である。


ところで日本国憲法の平和主義というのは、上述のところを見なかったことにし、「平和を愛する諸国民の公正と信義」なる虚構を設定した上に成り立っている。日頃「9条を世界へ」などと言っている人々は、「世界へ」という以上はおそらく所謂「一国平和主義」への批判的立場は踏まえている筈である。が、ではそういう人々が世界中のありとあらゆる戦争に分け隔て無く体を張って反対するだけの覚悟を持った上で「9条を世界へ」と呼ばわっているかというと、どう贔屓目に見てもそうは見えない事例が既に幾つも知られネット上にも流布しているのは周知の通りである。それは元をただせば彼らが実は「正義の戦争」というものの存在可能性を、もう少し控えめに言うならば戦争に於いて当事者のいずれか一方が他方に比べてより「正義」に近い位置にいるというようなことが起こり得る可能性を、意識的にかどうかは知らぬが心の何処かに想定してしまっているせいではないかという気がどうしてもしてしまうのである。国によっては「クリーンな核」なるものがあるらしいことを昔何処ぞの左翼政党が言っていたそうだが、そういうことを言い出す人々と所謂護憲派とで支持層がかなりの部分カブっているのも同じ理由ではないか。




そういえばつい先日も、とある米軍将校がイラクへの従軍を拒否したという記事を読んだ。大変な持ち上げようだが、それはまぁよい。この記事を書いた記者、どうも反戦運動か何かをやっている在米邦人らしいのだが、一方で


地元の peace actionでは、毎週土曜日にSTAMFORD(ママ)図書館の前で PEACE VIGIL をしています。もう、69週です。これからも戦争が続く限り、私たちも立ち続けます。

と言ったかと思うと同じ記事中で


もし、太平洋戦争で、日本の兵士が良心に従うことを許されていたら、あのような人道に対する犯罪を犯すことはなかったのではないでしょうか?

と言っているといった具合に、私にはこの記者氏が凡そ戦争というもの全てに反対しているのか、それとも戦争に於ける「人道に対する犯罪」なるものにのみ反対しているのかが何度読んでも分からぬのである。後者の場合、「人道に対する犯罪」無き戦争、謂わば「クリーンな人殺し」とでも呼ぶべきものの存在可能性を前提に話をしていることにならないか。そこの所の折り合いを反戦平和運動に携わる皆さんがどうやってつけているのか、誰か分かる人がいたら解説してほしいくらいである。


この記者氏の理解する所に従うなら、記事に出て来る日系米人将校が従軍拒否という挙に出た理由はあくまでこの将校があのイラク戦争を「国際法上違法」と考えているからに過ぎず、当然ながら彼が全ての戦争に斉しく反対しているわけではないだろう。そもそも全ての戦争に反対する人は職業軍人たる道を選ばないだろうし。


従ってこの将校の所信は次の2通りのいずれかしかあり得ない。即ち

  1. 「世の中には時として正義の戦争というものもあり得る。正義の戦争に於いては自分は戦うことを厭わない」

  2. 「世の中に正義の戦争というものは存在しない。全ての戦争は必要悪である。だがそれが《必要》悪である以上、必要とあれば自分は戦うことを厭わない」


上のいずれであったとしても世間の多くの反戦平和運動の主張する所とは相容れないように私には思えるが、どうなのだろう。もしも「いやそんなことはない、上のいずれであったにしても反戦平和とは矛盾しない」というのなら、今度は「ではあの日本国憲法9条は一体何なのだ。平和主義の立場からもあんなものは無用の長物ではないか」という話になりはせぬか。


というわけで、上の記者氏は今後も反戦平和運動を続けるなら件の米軍将校か護憲論の少なくともいずれか一方を捨てねば筋が通らぬ。記事中には護憲の「ご」の字も出て来ないようだから、きっと記者氏はバリバリの改憲派に違いない。なるほど改憲派の方が平和主義に近かったのか。ふー、安心した。



おまけ


読者には或いは私がここで直接何ら関係の無い2つの話をごちゃ混ぜに論じているように見えるかも知れません。


数年前、広島原爆慰霊碑事件というのがあったのを読者もご記憶のことでしょう。原爆を落とした側ではなく落とされた側が「あやまちは繰り返しませぬから」などと言い出す不思議さは、かの事件の犯人ならずともお感じになった方は多いかと思います。かの事件に象徴される戦後日本の「平和主義」の捻れというか自己矛盾というか場合によってはご都合主義的なものというか、これは前から気になっていることがらの一つではありました。


それを所謂「『自虐』史観」の為せる業と切り捨ててしまうのは容易ですが、そこをもう一歩奥まで腑分けして行くと、戦後「平和主義」がもつ一種の潔癖さ──必要悪としての戦争を頭の中から消してしまうという──の中から逆に架空の「正義の戦争」とでも呼ぶしかないものが出て来て、戦後「平和主義」的な目で見たときの東京裁判などは実はその一つの具象なのではないか、と考えてみると少しは分かる気がしたよ、というようなことを言いたかったのでした。おわり


[PR]
by xrxkx | 2007-02-21 00:29 | 雑記
米下院慰安婦決議案のこと ─安倍総理は河野談話を全否定せよ─

さて少々時機を逸した感はあるが米下院のマイク・ホンダらによる慰安婦決議案の件。「20万人」などの陳述が目立つのを見ると、ホンダらはおそらく慰安婦側の主張を鵜呑みにしており自身ではさほどの勉強はしていないだろう。明らかに「つくる会」を指すと思われる教科書批判が織り込まれているのも目を引く。バックにどういう団体がいるかおおよそ察しがつこう。慰安婦らを呼んでの公聴会を今頃後付けでやるというのもどうかしている。


彼らが日本政府に謝罪を求める上での拠り所は事実上「河野談話」一つであるらしい。今月5日に讀賣が報じた所では加藤良三なる駐米大使が米下院外交委の某小委員会委員長宛に同決議案採決反対の書簡を送った由。「日本政府がすでに慰安婦問題に関する責任を認め、謝罪を表明してきたことなどを説明」したのだそうな。「既に謝罪した」ではまたしても「言葉ではなく行動を」とネジ込まれるだけだという、それこそ盧武鉉でも分かるほど簡単な事が、日本政府高官には何故分からぬのか。


とはいったものの、である。確かに外務官僚の無為無策や不誠実を詰るのは容易だが、彼らとて「足を縛られている」のだ。肝腎の内閣がかの河野談話を踏襲すると言っている状況で現場の外交官にこれ以上の働きを求めるのは酷だろう。河野洋平の罪は万死に値するが、第一義的な責任はかかる徒輩を──そして今日に至るまでその始末を付けられずにいる全ての政治家を──国会に送っている私たち国民にある。


今からでも遅くはないから、安倍総理は河野談話を公式に撤回し、当時の調査は勿論今日に至るまで「軍または官憲」による強制性を立証するに足る証拠は何一つ示されていないことを全世界に向け堂々と主張すべきである。祖国防衛の為に尊い命を捧げた先人らに不当にも着せられた汚名を雪ぐ努力を総理自ら怠ったままで、次の世代に「国を愛する心」など説いてみても虚しい。




そういえばあの2005年春のバンドン会議での「小泉おわび演説」の折にすら、少なからぬ「保守」系サイトがこう言っていた:「これでもう日本は謝罪しなくてよいのだ」。所謂「小泉信者」──これももうそろそろ死語だが──による「アバタもエクボ」の極みである。あのとき私はこう書いた:「日本は大東亜戦争に二度負けたのだ」。果たしてどちらが正しかったか。


仮に件の決議案を安倍総理が丸ごと受け入れたとしたらどうなるか。曾て「小泉信者」がやったように、今度は「安倍信者」が「これでもう日本は…」とやり出すのかも知れない。賭けてもよいがそんな事で支那や朝鮮は矛を収めたりはすまい。次は「天皇が謝罪せよ」と言い出すのは目に見えている。


彼らにとって日本の譲歩は妥協の糸口ではなく、更なる譲歩を引き出す足掛かりに過ぎない。そしてその都度「人道的観点」から日本国民の血税がドブに捨てられる。かの「アジア女性基金」のように。


支那や朝鮮の反日策動の前に一切の妥協や弥縫策は有害無益である。河野談話などはその典型だ。あの93年の調査で「強制性の証拠無し」と出た際に政府が毅然とした対応を取っていれば、その後の慰安婦騒動の展開は180度変わっていただろう。




先にバンドン会議の話に触れたが、その直後の2005年5月だったか6月だったか、ブッシュが確かラトビアのリガで演説した際にヤルタ会談の誤りに言及したことがあった。


第2次世界大戦時、欧米先進諸国がヒトラーを倒す為にスターリンと手を結んだことがのちの東西冷戦を生んだ。一人の独裁者と戦う為に別の独裁者と手を結んだ結果がこれである。が、愚かにもアメリカはその東西冷戦下に於いても支那との国交「正常」化という同じ過ちを繰り返した(こちらについてはブッシュは上の演説では何も語っていない)。


こと対極東政策に関する限りアメリカはオレンジ・プランの時代からかれこれ100年以上一貫して同じ過ちを繰り返している。援蒋ルート然り、対支国交「正常」化然り。現在に於いてすらアメリカが時として「同盟」国たる日本に対する以上に支那に甘いのは、彼らアメリカ人が支那のプロパガンダに対しあまりに無防備なるが故であり、さらに言うなら西洋人の宿痾とも言うべき支那への買いかぶりの為せる業である。


周知のように支那人はプロパガンダにかけては世界一流である。彼らは都合の良い時だけ「侵略の被害者」を演じる術に長けている。支那が世界で最も「侵略の被害者」を名乗る資格に乏しい国家であることは、現在進行形の侵略である所のチベットや東トルキスタンの例を挙げるまでも無く明白だろうに、である。朝鮮人はプロパガンダに於いて支那人に比べ遥かに稚拙ではあるが、それでも「侵略の被害者」を演じるうまみだけは覚えた。支那の尻馬に乗って大声を上げるだけの役だから楽なものである。


マイク・ホンダは朝鮮のみならず支那でも大層な人気だそうな。米国内の「人権派」が世界最大の人権弾圧国家のプロパガンダのお先棒を進んで担いでいる図というのは笑えない冗談である。凡そ世の中に《無知な正義漢》くらい始末に負えないものは無い。


第2次世界大戦を「ファシズムに対する民主主義の戦い」だったとする世界規模の虚構は今も生き続けている。いい目を見ているのは専らファシストといい勝負の独裁国家ばかり。逆にいつも割を食っているのが日本である。まずこの虚構に日本は敢然と立ち向かわなくてはならない。独裁国家風情に「日本はドイツに学べ」などと言われて平身低頭していてはいけない。「日本をナチスドイツと一緒くたにするな」と言い返さなくてはいけない。


上述のブッシュ演説などは日本にとってまたとない追い風だった筈である。小泉前総理にはそれを活かす意志も才覚も無かった。ことごとくその逆を行った。まぁ靖國で「不戦の誓い」とやらをやってのける御仁にそんなものを期待するだけ無駄だが。




問われているのは大東亜戦争に於ける日本の大義である。まずは対日戦勝国──支那のようなまがいもの(ましてや朝鮮に至っては論外)でなく正真正銘の──たるアメリカに対してこれを堂々と主張しウンと言わせなくてはならない。それが出来ぬというなら日米「同盟」などという恥ずかしいことは口にせぬがよい。此処を避けて通る限り日本は永久にアメリカ様に頭が上がらないのである。支那は勿論のこと、朝鮮の売春婦風情にまでそれを見透かされているからこそ、今回の慰安婦決議案のような事がひっきりなしに起きる。


河野談話の全否定とは煎じ詰めれば日本の大義を取り戻す道のりの一歩に過ぎない。懸案は慰安婦だけではなく「強制連行」の問題もあれば南京事件も靖國もある。日本がGHQ史観に真っ向から立ち向かう覚悟を持たぬ限り、これら諸懸案が根本的に解決されることは無いだろう。今や支那・朝鮮の事はそのついでに過ぎない。



おまけ


あまりニュース記事の追っかけをやりたくないこともあり、暫くこんな感じのメモ的な書き散らしが続くと思いますがご容赦あれ。文体、「です・ます」よりこっちのほうが楽だなぁ。どうしようかな。


あと、コメント欄は開けておきました(先日開けるの忘れた)が基本的に不精ですので返事はあまり期待なさらないで下さい。TBはどう見ても益より害のほうが多いので当分閉じたままにしておきます。こちらからも打ちません。もしも拙blogの名前でTBを受け取ったという方がおいででしたら、それはニセモノですので容赦なく削除なさって下さい。出来ましたら送信元のIPなどお知らせ戴ければ幸いです。お手数をお掛けして申し訳ございませんが何卒宜しく御願い申し上げます。かしこ


[PR]
by xrxkx | 2007-02-19 03:59 | 時事ネタ一般
「嫌韓というムーブメントは終焉する」・読後所感 2/2

「嫌韓」は収穫期を迎えている


承前。K3のエントリに戻る。これは新井さんの問題提起というより自問自答なのだろうけれども、


…結局、我々は選挙という手段によってしか事をなしえない。(中略)そのために一庶民がようやく手に入れた情報発信ツールで何をすればよいのか?淡々とその日思ったことを書き連ねる中で出る韓国や在日への不満。それをどうやって掬い上げ、集積させ、力とできるか?…

時代が一巡りしたということだろうか。初期の頃からのK3読者の方々のうち果たして何人がK3開設当時かかる問題提起のあろうことを予想し得たか。誰とは言わぬが厄介な男と厄介な時期に出会ってしまった(笑)ばかりに新井さんもとんだ重荷を背負い込んだものである。こればかりは何かの因果と思って諦めて戴くしかない。


閑話休題。一部メディアによって無理矢理仕立て上げられた「韓流」がそうである以上に、自生的に誕生した「嫌韓」もまた所詮は一過性のブームに過ぎない。ブームはいつか去る。それでよいと私は思う。去った後にそのブームが社会に如何なるコモンセンスを遺し得るかが重要である。


「韓流」が去り「嫌韓」が去るに伴い、それらと一定の距離を置いて来た人々まで含めて多くの大衆にとって韓国そのものは「嫌韓」以前とはまた違った意味に於いてではあれ「なるべくなら関わり合いになりたくない鬱陶しい存在」に戻って行くだろう。「まだ韓国なんか構っているのか。あんなのもう放っておけばいいのに」といった具合に。一見すれば「元の木阿弥」に見えるかも知れない。


が、「放っておく」わけに行かない部分は確実に残るだろう。竹島領有権問題然り、或いは靖國や慰安婦・教科書などまで含めた広い意味での歴史認識の問題にしても然り、更には日本の対北政策に対する韓国官民の敵対的行動然り、不法滞在韓国人による犯罪の問題然り、外国人参政権の問題然り、そして在日特権の問題もまた然り。その時、人々はもはやあの困った隣人たちを曾てのように腫れ物扱いはすまい。あらゆるまやかしは暴かれた。あとはそれをどれだけ多くの人々が知るかの問題に過ぎない。


これから暫くは「吐き出す時期」である。上は対日賠償請求の蒸し返しから下はパクリ商品の横行に至るまで、これまで蓄積された韓国に関する一切の事例を、単にネットの中だけに留めておかず紙媒体や電波などありとあらゆる手段を通じて可能な限り広範な大衆に浸透させることが肝要だ。近い将来、日本という国が上述のような諸問題にどう取り組んで行くべきかを改めて問われた際、それらの事例が人々の政治的行動を確実に一定の方向に押しやるだろう。そうなることを望まない勢力が「民族差別」だ「在日いじめ」だとお得意のレッテル貼りに血道をあげようにも、その「民族差別」なり「在日いじめ」なりの主と目されてきた人々は既にネットの海の底深くに帰って行った後である。あとに残されたマジョリティはあくまで目の前に突きつけられた事実のみを見て動く。



次に来るのは「嫌マス○ミ流」?


それはともかく、おそらく新井さんとしては輿論の「嫌韓」傾向が長い目で見て日本の政治に及ぼす効果のことはひとまず措いて、もう少し短期的なスパンで見て「嫌韓という資産」の運用を当面どうするかという問題を考えたかったのだろう。先ほどの問題提起の直後にこうある:


…それが実現した暁にはネットの意見を重要視する政治か(ママ)も出現するだろうから、今は過渡期なのかも知れない。 / だが、それまでに嫌韓という一種のムーブメントがどうなるか、という点に絞って考えると、…

同氏の見解では「嫌韓」は「サブカル的ポジション」に留まり「政治的行動に転嫁(ママ)することはないだろう」とのことだが、私は必ずしもそうは見ない。なるほど「サブカル的ポジション」といえば、前回のエントリの最後のほうで分類した(3)の人々などが現在既にそうで、その傾向の人々は(これまた誰とは言わぬが)今後ますます「ブラック小倉紀蔵」的な芸風(?)に磨きをかけて行くだろうけれども、「嫌韓」の政治的性格の部分はそれらサブカル的側面を離れ、場合によっては韓国そのものを殆どそっちのけにして一人歩きを始める可能性が高いと見る。


それ単独での存在意義の薄れた後の「嫌韓」が何処へ向かうか。私が思うに、おそらくはもっと大きな文脈の中での「メディアとの対峙」に回帰し収斂して行くだろう。それも意外に早い時期に。


周知のように、韓国ないし北まで含めての朝鮮一般を巡っては、メディアにとってこれまでタブーだった事項は殊の外多い。在日特権の問題にしても例外ではない。右を向けば解同との協調関係、ひいては人権擁護法案/条例との関わりがあり、片や左を向けば総聯の固定資産税減免問題や対北不正送金との関わりがあるといった具合に、その裾野は驚くほど広い。


これまた言い古された事だが、国内外からの如何なる圧力によるかを問わず、曾てメディアは自らに不都合な情報は国民大衆に「知らせない」ことができた。ネットの登場によってそれが不可能になった。曾て「国民の目」を自称し「権力を監視する」と嘯いたメディアが初めて自ら監視される側に回った。しかも彼らが忌み嫌って止まない権力によってではなく、彼らがそれと共にあると自称していた所の大衆によって、である。彼らは自らのコントロールの及ばない場所で輿論が生まれ一人歩きすることを極度に恐れている。昨今の「ネット右翼」叩きなどはその表れである。


余談だが、韓国のネットメディアはその言論の質に於いてお世辞にも褒められた代物ではないにも拘わらず、ただ保守三大紙など既存の「財閥系」メディアとの対決路線を貫いたことによってあれだけの隆盛を見た。オーマイニュースなどは良くも悪しくもその典型である。一方、同じオーマイでありながら、我が鳥越俊太郎のようなネットメディアの本分を見誤った輩が逆に既存メディアに歩調を合わせる形で2ch批判あるいは「匿名性」批判に血眼になっている姿は滑稽としか言いようが無い。彼らは日本に於ける所謂「市民参加型メディア」の可能性の芽を自ら徒に摘んだ。これら一連の出来事によって2chのような言論の最底辺は寧ろ自らの存在理由を再確認するだろう。それが日本にとって吉と出るか凶と出るかは私の知る所ではない。


話を戻すと、目下の一部既存メディアによる「ネット右翼」バッシングは今後ますます露骨さを増して行くだろう。それらメディアが上述の「匿名性」と並んで、或いはそれ以上に積極的に攻撃の矛先を向けるのが「ネットに蔓延するナショナリズム」とやらであることは明白である。それがますます「嫌韓」をメディアとの対決の方向に駆り立てるだろう。その都度双方によって肴にされる韓国こそいい面の皮ではあるが、元はといえば自業自得である。


[PR]
by xrxkx | 2007-02-17 00:57 | 雑記
「嫌韓というムーブメントは終焉する」・読後所感 1/2

※本エントリは、もともとは先日読んだ「コリアン・ザ・サード」改め "Korean the 3rd" (以下K3)の「嫌韓というムーブメントは終焉する」の所感のつもりで自分用のメモとして書き出した物です(文体が「です・ます」になっていないのはその故です。悪しからず)。この点についてはかねてよりいろいろ思う所あったため、加筆に加筆を重ねるうちに話があちこち脱線だらけになってしまいました。長くなりすぎたので2回に分けます。



はじめに


「そろそろ嫌韓というムーブメントの行く末を案じる時に来ているような気がする」というのは全くその通りだろう。寧ろ今までその「嫌韓というムーブメント」の中からそうした声がなかなか出て来なかったのが不思議なくらいだ。無論、「嫌韓ムードが日韓間の友好関係構築に水を差すから」などという薄ら寒い理由ではない。いつまで「嫌韓」ばかりやっていてもそこにとどまっていては先が無いことくらい当初から分かり切っていた筈だからである。


私自身、支那・朝鮮関連の報道記事は今でも目を通すが、自分でblogに半島ネタを書くというのは、ご覧の通り卵子売買から黄禹錫の論文捏造に至る一連の騒ぎを追っかけていた頃以来長いことやっていない。、どちらかというと、「飽きた」というよりは「支那・朝鮮そのものについてはもう言うべき事はあらかた言ってしまった」という気がしたからである。無論新しいネタは日々数限りなく供給され続けているのだからそれを元に従来どおりの切り口で書こうと思えば幾らでも書けるだろうが、書き手としてはそんな事ばかりしていても消耗感が募るばかりだ。書くならもっと日本という国にとって大事な事を書きたい。その「大事な事」が私のような一介の技術屋の手に余るからなかなか書けないだけである。


ついでに言えば、特亜ヲチ系blogの書籍化が商業ベースに乗るご時世──良し悪しはさておき──にあって、単にそれらの一翼と思われるのはゴメンだ、という思いも率直なところ無くはなかった。特に「嫌韓」の「嫌」が嫌だった(もっとも「私は嫌韓」と自ら称する人はあまりいないと思うが)。言い換えるなら、やれ韓国は反日だから懲らしめてやれだの、台湾は親日だから仲良くしろだのといった小学生の交友関係みたいなノリで国家間の関係を語りたがる薄っぺらさが鼻持ちならなかった。念の為書いておくがこれは「反日だからといって毛嫌いしないで仲良くやっていく方法を模索すべきです」とかいった意味では更々ない。乱暴な言い方をすれば、「反日のままで別に構わないではないか、『利日』にさえしてしまえれば」というような意味である。



「嫌韓」は何故終わるか


私自身のことはこれくらいにして、上のK3のエントリでは、「嫌韓というムーブメント」の終焉の動機として新井さんは次の点を指摘している:


…そもそも日本人自体がムーブメントというものに乗せられ易いという面もあるんじゃないかと思う。 基本的に不正というものに対して敏感なのが日本人なのかな、と思いながらも、喉元を通り過ぎれば過去のものとして割り切ってしまうような、悪く言えばもう関係無いや的振る舞いをしてしまうのも、また日本人の性質のように感じられる。熱しやすく冷めやすいというか。…

あくまで私の想像の域を出ないが、こと韓国に関する限り、少なからぬ日本人が単に「飽きた」というよりは「もうウンザリ」というか「お腹いっぱい」というか、いずれにせよ「まともなパートナーとして付き合っていくのは無理」という諦めに近い感触を共有するところまで来ているのではないか。韓国──あるいは北朝鮮にしてもそうだが──の対日要求の支離滅裂さなり、政府内外の韓国人集団の政治的言動のお粗末さなり、市井の韓国国民がしばしば見せる非文明的な言動なり、そういった夥しい事例がネット上に蓄積され共有されていったことが、えてして喧伝されがちな「近くて遠い国から近くて近い国へ」式の美辞麗句の虚構性についての社会通念を形成してゆく上で一定の成果を挙げたことは、もっと高く評価されてよいだろう。今や、日本にあって無邪気にも「韓国が好き」などと手放しで言い切れるのは、かの国の料理と芸能しか知らないミーハーだけである。逆に、極論すればこれを為し得た時点で所謂「嫌韓」はその役目を終えたのだと思う。


皮肉なことに、これら一連の過程に於いてすら、当の韓国は徹頭徹尾脇役であり続けた。彼らの為す所とは即ち「知れば知るほど嫌いになる国」という当たり役を素のままで演じ切ることでしかなかった。何故なら、夙に言われ続けて来たように、日本の「嫌韓」大衆の多くにとってより重大な関心事は、これまで韓国に関するネガティブな報道を手控えて来た他ならぬ日本国内メディアの姿勢だったからである。「ありのまま」の韓国報道を求めるそうした大衆の欲求の変化を、メディアももはや無視し得ないところまで来ている。間もなく竹島の日がやって来るが、竹島の日条例成立当時の関連報道などはその見本だった。ニュースやワイドショーなどでコメンテーターが李承晩ライン以来の韓国側のやり口を真正面から非難する場面など、10年前にどれだけお目に掛かれただろう。


所詮商業メディアは大衆のニーズには勝てない(逆に言えばこれは公共放送たるNHKが国内外の反日勢力のターゲットにされ易い所以でもあるが)。メディアがどれだけ「韓流ブーム」なるものをでっち上げてみたところで、それこそ「熱し易く冷め易い」大衆に飽きられればそれで終わりである。「韓流」が去れば「嫌韓流」も去る。「嫌韓」とは畢竟そうした日本メディアの歪んだ韓国観の鏡像に過ぎないからだ(老婆心ながら所謂「嫌嫌韓」な人々はこの事を肝に銘じておいたほうが良い)。



「嫌韓」は自律的発展をしない


ところで、しばしば世間で十把一絡げに「嫌韓」と称される潮流には、ごく大雑把に分けて以下の3つの傾向──段階と呼んでよいかどうか──がある:


  1. 2chなどで謂う所の「嫌韓厨」。この傾向の人々はニュースやスポーツ中継などを通じて得た「韓国ウザイ」程度の認識しか持っておらず、韓国人とはどういう生き物であるかについての知識ないし「経験値」が総じて不足している。が、さればこそ韓国ないし韓国人(在日含む)に関する日本国内の報じ方の異常さに対する反応は際立ってナイーブかつ尖鋭であり、またその点に関する限り彼らの批判の概要自体はあながち的外れでないことが多い。

  2. 「戦闘的対話」路線。この傾向の人々は、基本的には「日韓関係の現状打破には個人レベルでの対話による相互理解の積み重ねが重要」だと考えている。が、韓国人の主張の論理破綻・情緒先行・虫の良さに対しては一切のトレランスを示さないという只一点に於いて、若宮啓文的思考と決定的な一線を画している。

  3. 「生態観察」路線。この傾向の人々は韓国人をそもそも対等の対話相手と見做さず、従って日韓間の相互理解なるものの必要性もさほど認めておらず、もしくは相互理解などとうの昔に諦めている。但し、「韓国という国への向き合い方・対処の仕方」を考える上で韓国人独特の思考様式・習性を知悉しておくことが不可欠だと考える傾向は(2)の「戦闘的対話」路線の人々に劣らず強く、従ってそうした基本的素養を欠いた「食わず嫌い」に対しては冷淡。ついでにいうと、韓国人のものの考え方を読み解く上で欠かせない「ウリ」とか「恨」とかの概念についてある程度以上まとまった正確な理解を持つに至っているのはこの傾向の人々だけである。

無論これらは大まかな傾向を示したに過ぎず、またこれら3者の間に明快なボーダーラインがあるわけでもないが、「嫌韓」なる現象を外から眺めた場合に最も目に留まり易いのが(1)であるのは言うまでも無い。昨年あたりから俄かに活発になり出した一部既存メディアによる「ネット右翼」バッシングに於いて槍玉に挙がり易いのも(1)である。実際彼らの場合もともと大した理論武装をしているわけでもないから、直情径行型・脊髄反射型の言動や基本的な事実誤認も多く、従ってこれだけでは言論の質に於いて韓国側と大差無い。これが(2)や(3)になると本人たちは必ずしも韓国及び韓国人を「嫌って」おらず、従ってこういう傾向を「嫌韓」に含めるのは厳密には誤りである。


ここで、「知れば知るほど嫌いになる国」の困った点は、幾ら「知って」もそれだけでは(1)が(2)や(3)に発展して行くことは稀だという点だ。前述のように多くの人々はある程度「知った」時点で「お腹いっぱい」になってしまい、その先が続かないからである。「ありのままの韓国」には「致死量」がある。


こうして多くの人々が「やれやれ呆れた国だね韓国は」という段階で思考停止してしまうに至る。これに対する「嫌嫌韓」サイドからのカウンターアタックはどうかと言えば、旧態依然「日本の軍国主義がアジアの人々に与えた精神的苦痛」とやらを引っ張り出して来て日本人に一方的なトレランスを求めるに留まっていたり、そうかと思えば日韓双方の留学生や一部在日などによく見られるように「等身大の韓国人像」論もしくは「裸の付き合い」論とでも呼ぶべきものに逃げ込んでしまい、肝心の「個別に見れば必ずしも悪い人ばかりでない韓国人が集団を成したときに何故ああいう異常な群集が出来上がるのか」という点については一貫して言及を避け続ける、といった例が殆どである。これでは両者の主張が平行線を辿るのも無理は無い。かかる事態は「嫌韓」及び「嫌嫌韓」いずれの側にとっても斉しく好ましからぬ事態に違いない。


[PR]
by xrxkx | 2007-02-16 02:31 | 雑記