2007年 02月 21日 ( 1 )
大東亜戦争の大義と戦後日本の「平和主義」について

前回「大東亜戦争に於ける日本の大義」という言い方をしたけれども、これがまた誤解を招きかねない表現なので少し整理しておきたい。こういう場合の誤解というのは、的外れな反論も面倒だが、的外れな賛同はもっと困る。


先に言ってしまうと、私は何も大東亜戦争を「日本の正義の、米英なりもっと広い意味での聯合国なりの悪に対する戦い」だと言いたいわけではない。無論あの戦争を戦った一方の当事者にすればあの戦争はかなり本気で「暴支膺懲」の戦いだとか「鬼畜米英に対する聖戦」だったろうし、それが悪いとは微塵も思わないのだが、ただ、戦後60年も経った現代を生きる私たちがあの戦争を振り返り総括する際にそれ一辺倒で済ませてしまうというのは、それはそれでやはり理性の怠慢であって、あちらの世界の方々が「あの戦争は軍国主義の起こした侵略戦争でした、アジアの人々に多大な迷惑を掛けました、戦争は悲惨だからいけません、これからはデモクラシーの時代です、戦争抛棄で平和主義でいきませう」とか言っていた/いるのと同じくらい困ったものではある。


私が前回触れた意味での「大東亜戦争に於ける日本の大義」とは、一つには日本が対米開戦に追い込まれる経緯──あるいは支那事変も同じことかも知れないが──を巡っての「お前ら何を被害者ぶってるわけ?」という思いであったり、また「人道に対する罪だの平和に対する罪だのとお前らに言われる筋合いは無い。それを言うなら通州事件やら東京大空襲やら原爆投下やらシベリア抑留のほうはどうしてくれる」という思いであったり、ましてややってもいないことまでやったと言われてはたまらんという話であって、そこの所を東京裁判このかたことごとく誤魔化して済ませて来ているから今からでも正すべきは正せと言っているに過ぎない。GHQ史観の信奉者の目にはそういうのが「歴史修正主義」に見えるらしいが、言い分は勝者の側にばかりあるのではないことは、かのパール判事の例を見れば明らかである。それをケシカランと言うほうこそヒトラーも顔負けの "Macht ist Recht" というか「勝てば官軍」主義である。




「核兵器の登場によって正義の戦争というものはあり得なくなった」と言ったのは確か湯川秀樹だったか。無論彼の言わんとする所が分からぬわけではないが、ただ、核の出現以前か以後かに依らず、そもそも戦争というものを「正義の戦争」と「そうでない戦争」とに分けることに果たしてどれだけの意味があるかと私は寧ろ首を捻りたくなる。そこはまぁ、湯川ほどの知識人にすらこうした発言をさせるだけの時代の空気というものが、曾ての「一億総懺悔」の時代にはあったということかも知れない。ことほど然様に時代の空気というものは極から極へ振れ易い。


戦争は一種の必要悪である。人性というものを根こそぎ変えてしまうことでも出来ない限り戦争が世の中から消え去らないであろうことは、「世界で最も古い商売」たる売春が無くならないであろうこととよく似ている。戦争そのものを無くすことが事実上不可能だからこそ、それに一定のルールを設けタガを嵌めておくことで戦争のもたらすリスクを可能な限り小さく抑える努力を人類はして来た。勿論これは戦争そのものを未然に防ぐ努力とはまた別次元で論じられるべき問題である。


ところで日本国憲法の平和主義というのは、上述のところを見なかったことにし、「平和を愛する諸国民の公正と信義」なる虚構を設定した上に成り立っている。日頃「9条を世界へ」などと言っている人々は、「世界へ」という以上はおそらく所謂「一国平和主義」への批判的立場は踏まえている筈である。が、ではそういう人々が世界中のありとあらゆる戦争に分け隔て無く体を張って反対するだけの覚悟を持った上で「9条を世界へ」と呼ばわっているかというと、どう贔屓目に見てもそうは見えない事例が既に幾つも知られネット上にも流布しているのは周知の通りである。それは元をただせば彼らが実は「正義の戦争」というものの存在可能性を、もう少し控えめに言うならば戦争に於いて当事者のいずれか一方が他方に比べてより「正義」に近い位置にいるというようなことが起こり得る可能性を、意識的にかどうかは知らぬが心の何処かに想定してしまっているせいではないかという気がどうしてもしてしまうのである。国によっては「クリーンな核」なるものがあるらしいことを昔何処ぞの左翼政党が言っていたそうだが、そういうことを言い出す人々と所謂護憲派とで支持層がかなりの部分カブっているのも同じ理由ではないか。




そういえばつい先日も、とある米軍将校がイラクへの従軍を拒否したという記事を読んだ。大変な持ち上げようだが、それはまぁよい。この記事を書いた記者、どうも反戦運動か何かをやっている在米邦人らしいのだが、一方で


地元の peace actionでは、毎週土曜日にSTAMFORD(ママ)図書館の前で PEACE VIGIL をしています。もう、69週です。これからも戦争が続く限り、私たちも立ち続けます。

と言ったかと思うと同じ記事中で


もし、太平洋戦争で、日本の兵士が良心に従うことを許されていたら、あのような人道に対する犯罪を犯すことはなかったのではないでしょうか?

と言っているといった具合に、私にはこの記者氏が凡そ戦争というもの全てに反対しているのか、それとも戦争に於ける「人道に対する犯罪」なるものにのみ反対しているのかが何度読んでも分からぬのである。後者の場合、「人道に対する犯罪」無き戦争、謂わば「クリーンな人殺し」とでも呼ぶべきものの存在可能性を前提に話をしていることにならないか。そこの所の折り合いを反戦平和運動に携わる皆さんがどうやってつけているのか、誰か分かる人がいたら解説してほしいくらいである。


この記者氏の理解する所に従うなら、記事に出て来る日系米人将校が従軍拒否という挙に出た理由はあくまでこの将校があのイラク戦争を「国際法上違法」と考えているからに過ぎず、当然ながら彼が全ての戦争に斉しく反対しているわけではないだろう。そもそも全ての戦争に反対する人は職業軍人たる道を選ばないだろうし。


従ってこの将校の所信は次の2通りのいずれかしかあり得ない。即ち

  1. 「世の中には時として正義の戦争というものもあり得る。正義の戦争に於いては自分は戦うことを厭わない」

  2. 「世の中に正義の戦争というものは存在しない。全ての戦争は必要悪である。だがそれが《必要》悪である以上、必要とあれば自分は戦うことを厭わない」


上のいずれであったとしても世間の多くの反戦平和運動の主張する所とは相容れないように私には思えるが、どうなのだろう。もしも「いやそんなことはない、上のいずれであったにしても反戦平和とは矛盾しない」というのなら、今度は「ではあの日本国憲法9条は一体何なのだ。平和主義の立場からもあんなものは無用の長物ではないか」という話になりはせぬか。


というわけで、上の記者氏は今後も反戦平和運動を続けるなら件の米軍将校か護憲論の少なくともいずれか一方を捨てねば筋が通らぬ。記事中には護憲の「ご」の字も出て来ないようだから、きっと記者氏はバリバリの改憲派に違いない。なるほど改憲派の方が平和主義に近かったのか。ふー、安心した。



おまけ


読者には或いは私がここで直接何ら関係の無い2つの話をごちゃ混ぜに論じているように見えるかも知れません。


数年前、広島原爆慰霊碑事件というのがあったのを読者もご記憶のことでしょう。原爆を落とした側ではなく落とされた側が「あやまちは繰り返しませぬから」などと言い出す不思議さは、かの事件の犯人ならずともお感じになった方は多いかと思います。かの事件に象徴される戦後日本の「平和主義」の捻れというか自己矛盾というか場合によってはご都合主義的なものというか、これは前から気になっていることがらの一つではありました。


それを所謂「『自虐』史観」の為せる業と切り捨ててしまうのは容易ですが、そこをもう一歩奥まで腑分けして行くと、戦後「平和主義」がもつ一種の潔癖さ──必要悪としての戦争を頭の中から消してしまうという──の中から逆に架空の「正義の戦争」とでも呼ぶしかないものが出て来て、戦後「平和主義」的な目で見たときの東京裁判などは実はその一つの具象なのではないか、と考えてみると少しは分かる気がしたよ、というようなことを言いたかったのでした。おわり


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by xrxkx | 2007-02-21 00:29 | 雑記