2007年 02月 16日 ( 1 )
「嫌韓というムーブメントは終焉する」・読後所感 1/2

※本エントリは、もともとは先日読んだ「コリアン・ザ・サード」改め "Korean the 3rd" (以下K3)の「嫌韓というムーブメントは終焉する」の所感のつもりで自分用のメモとして書き出した物です(文体が「です・ます」になっていないのはその故です。悪しからず)。この点についてはかねてよりいろいろ思う所あったため、加筆に加筆を重ねるうちに話があちこち脱線だらけになってしまいました。長くなりすぎたので2回に分けます。



はじめに


「そろそろ嫌韓というムーブメントの行く末を案じる時に来ているような気がする」というのは全くその通りだろう。寧ろ今までその「嫌韓というムーブメント」の中からそうした声がなかなか出て来なかったのが不思議なくらいだ。無論、「嫌韓ムードが日韓間の友好関係構築に水を差すから」などという薄ら寒い理由ではない。いつまで「嫌韓」ばかりやっていてもそこにとどまっていては先が無いことくらい当初から分かり切っていた筈だからである。


私自身、支那・朝鮮関連の報道記事は今でも目を通すが、自分でblogに半島ネタを書くというのは、ご覧の通り卵子売買から黄禹錫の論文捏造に至る一連の騒ぎを追っかけていた頃以来長いことやっていない。、どちらかというと、「飽きた」というよりは「支那・朝鮮そのものについてはもう言うべき事はあらかた言ってしまった」という気がしたからである。無論新しいネタは日々数限りなく供給され続けているのだからそれを元に従来どおりの切り口で書こうと思えば幾らでも書けるだろうが、書き手としてはそんな事ばかりしていても消耗感が募るばかりだ。書くならもっと日本という国にとって大事な事を書きたい。その「大事な事」が私のような一介の技術屋の手に余るからなかなか書けないだけである。


ついでに言えば、特亜ヲチ系blogの書籍化が商業ベースに乗るご時世──良し悪しはさておき──にあって、単にそれらの一翼と思われるのはゴメンだ、という思いも率直なところ無くはなかった。特に「嫌韓」の「嫌」が嫌だった(もっとも「私は嫌韓」と自ら称する人はあまりいないと思うが)。言い換えるなら、やれ韓国は反日だから懲らしめてやれだの、台湾は親日だから仲良くしろだのといった小学生の交友関係みたいなノリで国家間の関係を語りたがる薄っぺらさが鼻持ちならなかった。念の為書いておくがこれは「反日だからといって毛嫌いしないで仲良くやっていく方法を模索すべきです」とかいった意味では更々ない。乱暴な言い方をすれば、「反日のままで別に構わないではないか、『利日』にさえしてしまえれば」というような意味である。



「嫌韓」は何故終わるか


私自身のことはこれくらいにして、上のK3のエントリでは、「嫌韓というムーブメント」の終焉の動機として新井さんは次の点を指摘している:


…そもそも日本人自体がムーブメントというものに乗せられ易いという面もあるんじゃないかと思う。 基本的に不正というものに対して敏感なのが日本人なのかな、と思いながらも、喉元を通り過ぎれば過去のものとして割り切ってしまうような、悪く言えばもう関係無いや的振る舞いをしてしまうのも、また日本人の性質のように感じられる。熱しやすく冷めやすいというか。…

あくまで私の想像の域を出ないが、こと韓国に関する限り、少なからぬ日本人が単に「飽きた」というよりは「もうウンザリ」というか「お腹いっぱい」というか、いずれにせよ「まともなパートナーとして付き合っていくのは無理」という諦めに近い感触を共有するところまで来ているのではないか。韓国──あるいは北朝鮮にしてもそうだが──の対日要求の支離滅裂さなり、政府内外の韓国人集団の政治的言動のお粗末さなり、市井の韓国国民がしばしば見せる非文明的な言動なり、そういった夥しい事例がネット上に蓄積され共有されていったことが、えてして喧伝されがちな「近くて遠い国から近くて近い国へ」式の美辞麗句の虚構性についての社会通念を形成してゆく上で一定の成果を挙げたことは、もっと高く評価されてよいだろう。今や、日本にあって無邪気にも「韓国が好き」などと手放しで言い切れるのは、かの国の料理と芸能しか知らないミーハーだけである。逆に、極論すればこれを為し得た時点で所謂「嫌韓」はその役目を終えたのだと思う。


皮肉なことに、これら一連の過程に於いてすら、当の韓国は徹頭徹尾脇役であり続けた。彼らの為す所とは即ち「知れば知るほど嫌いになる国」という当たり役を素のままで演じ切ることでしかなかった。何故なら、夙に言われ続けて来たように、日本の「嫌韓」大衆の多くにとってより重大な関心事は、これまで韓国に関するネガティブな報道を手控えて来た他ならぬ日本国内メディアの姿勢だったからである。「ありのまま」の韓国報道を求めるそうした大衆の欲求の変化を、メディアももはや無視し得ないところまで来ている。間もなく竹島の日がやって来るが、竹島の日条例成立当時の関連報道などはその見本だった。ニュースやワイドショーなどでコメンテーターが李承晩ライン以来の韓国側のやり口を真正面から非難する場面など、10年前にどれだけお目に掛かれただろう。


所詮商業メディアは大衆のニーズには勝てない(逆に言えばこれは公共放送たるNHKが国内外の反日勢力のターゲットにされ易い所以でもあるが)。メディアがどれだけ「韓流ブーム」なるものをでっち上げてみたところで、それこそ「熱し易く冷め易い」大衆に飽きられればそれで終わりである。「韓流」が去れば「嫌韓流」も去る。「嫌韓」とは畢竟そうした日本メディアの歪んだ韓国観の鏡像に過ぎないからだ(老婆心ながら所謂「嫌嫌韓」な人々はこの事を肝に銘じておいたほうが良い)。



「嫌韓」は自律的発展をしない


ところで、しばしば世間で十把一絡げに「嫌韓」と称される潮流には、ごく大雑把に分けて以下の3つの傾向──段階と呼んでよいかどうか──がある:


  1. 2chなどで謂う所の「嫌韓厨」。この傾向の人々はニュースやスポーツ中継などを通じて得た「韓国ウザイ」程度の認識しか持っておらず、韓国人とはどういう生き物であるかについての知識ないし「経験値」が総じて不足している。が、さればこそ韓国ないし韓国人(在日含む)に関する日本国内の報じ方の異常さに対する反応は際立ってナイーブかつ尖鋭であり、またその点に関する限り彼らの批判の概要自体はあながち的外れでないことが多い。

  2. 「戦闘的対話」路線。この傾向の人々は、基本的には「日韓関係の現状打破には個人レベルでの対話による相互理解の積み重ねが重要」だと考えている。が、韓国人の主張の論理破綻・情緒先行・虫の良さに対しては一切のトレランスを示さないという只一点に於いて、若宮啓文的思考と決定的な一線を画している。

  3. 「生態観察」路線。この傾向の人々は韓国人をそもそも対等の対話相手と見做さず、従って日韓間の相互理解なるものの必要性もさほど認めておらず、もしくは相互理解などとうの昔に諦めている。但し、「韓国という国への向き合い方・対処の仕方」を考える上で韓国人独特の思考様式・習性を知悉しておくことが不可欠だと考える傾向は(2)の「戦闘的対話」路線の人々に劣らず強く、従ってそうした基本的素養を欠いた「食わず嫌い」に対しては冷淡。ついでにいうと、韓国人のものの考え方を読み解く上で欠かせない「ウリ」とか「恨」とかの概念についてある程度以上まとまった正確な理解を持つに至っているのはこの傾向の人々だけである。

無論これらは大まかな傾向を示したに過ぎず、またこれら3者の間に明快なボーダーラインがあるわけでもないが、「嫌韓」なる現象を外から眺めた場合に最も目に留まり易いのが(1)であるのは言うまでも無い。昨年あたりから俄かに活発になり出した一部既存メディアによる「ネット右翼」バッシングに於いて槍玉に挙がり易いのも(1)である。実際彼らの場合もともと大した理論武装をしているわけでもないから、直情径行型・脊髄反射型の言動や基本的な事実誤認も多く、従ってこれだけでは言論の質に於いて韓国側と大差無い。これが(2)や(3)になると本人たちは必ずしも韓国及び韓国人を「嫌って」おらず、従ってこういう傾向を「嫌韓」に含めるのは厳密には誤りである。


ここで、「知れば知るほど嫌いになる国」の困った点は、幾ら「知って」もそれだけでは(1)が(2)や(3)に発展して行くことは稀だという点だ。前述のように多くの人々はある程度「知った」時点で「お腹いっぱい」になってしまい、その先が続かないからである。「ありのままの韓国」には「致死量」がある。


こうして多くの人々が「やれやれ呆れた国だね韓国は」という段階で思考停止してしまうに至る。これに対する「嫌嫌韓」サイドからのカウンターアタックはどうかと言えば、旧態依然「日本の軍国主義がアジアの人々に与えた精神的苦痛」とやらを引っ張り出して来て日本人に一方的なトレランスを求めるに留まっていたり、そうかと思えば日韓双方の留学生や一部在日などによく見られるように「等身大の韓国人像」論もしくは「裸の付き合い」論とでも呼ぶべきものに逃げ込んでしまい、肝心の「個別に見れば必ずしも悪い人ばかりでない韓国人が集団を成したときに何故ああいう異常な群集が出来上がるのか」という点については一貫して言及を避け続ける、といった例が殆どである。これでは両者の主張が平行線を辿るのも無理は無い。かかる事態は「嫌韓」及び「嫌嫌韓」いずれの側にとっても斉しく好ましからぬ事態に違いない。


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by xrxkx | 2007-02-16 02:31 | 雑記