日韓国交樹立:そのころ韓国大衆は…
 日韓基本条約締結時の補償の内訳についての 韓国側での(1)政府レベル (2)いわゆる有識者 (3)マスコミおよび大衆,以上各々の従来の認識について 詳細を調べているところなのですが,途中で面白い記述を見つけましたので,ちょっと寄り道しようかと思います.
 以下の かなり長い抜き書きは,80年代も終わりに近づいた頃の 韓国の学生運動のリーダー格だった人々が編著者となって書かれた本からのもの.ちなみに この本は 韓国では発売直後に発禁処分を受けた由.
 軍部政権は,5・16クーデター直後から韓日会談の再開と妥結に非常な熱意を見せた.軍部政権にとって,韓日会談の妥結は,政治的難題を解決する道であると同時に,経済的危機を克服する道であった.
 1960年代に入って,中国を包囲し始めたアメリカの東アジア政策は,ベトナムと韓国というふたつの最前方基地を中心に展開された.アメリカの直接的な軍事介入によって,ベトナムが急激に熱戦の渦に巻き込まれると,アメリカは韓半島の冷戦体制を安定的に維持することに心血を注いだ.しかし,すでに全世界的に弱くなり始めたアメリカの影響力だけをもってしては,日がたつにつれて難しくなっていくベトナム戦争の状況に対処することさえ手に余る,というのが実情であった.そこでアメリカは,成長する日本資本にアメリカの東アジア戦略を実行するための地域同盟の責任者という役割を押しつけようとした.実際,1960年1月19日の米日新安保条約締結以後,日本の同盟者的性格は急速に強化されたが,ここでアメリカが日本に要求した最優先事項が,他ならぬ韓国問題だったのである.日本はアメリカの東アジア戦略に便乗し,アメリカの軍事力に相当部分依存しながら,宿願の対外進出をなしとげようとした.こうした東アジア情勢の変化を背景として登場した軍部政権にとって,韓国民衆のいつ爆発するかわからない統一運動を封鎖するという意味でも,当時の国際関係再編の核心的な懸案として提起された韓日会談の早急な妥結は,政権の存続を決する死活の要請であった.
 これとともに,(註:米軍政からの)援助の終息という新しい経済的条件と,民衆の激しい生存権保障の要求に直面し,経済の再建と民生苦の解決を約束していた軍部政権にとっては,社会経済構造の民衆的変革の方向に対抗して経済的危機を克服するためにも,膨大な投資財源を供給してくれる日本資本の導入は時間を争う重大な問題であった.軍部政権は,日本資本の導入による生産の拡大は,政権の物的基盤を確保し,民衆の生存権保障の要求を鈍化させてくれるものであり,さらに重要なことには,対韓投資の利益を守るために,日本資本が韓半島の現状維持に直接的な関心をもつようになるだろうと期待していた.
 5・16クーデターの直後に,韓日会談の年内妥結を夢見た軍部政権は,合意内容をめぐる韓日両国の異見と両国の国内事情のために妥結が遅れ続けると,中央情報部長金鍾泌を日本に派遣し,1962年11月12日に外相大平とメモを交換する秘密会談の末に,ようやく妥結の条件についての合意を引き出した.韓日会談の主要な議題は,対日請求権問題と漁業問題であったが,軍部政権の最大の関心事であった対日請求権問題が,金・大平メモを通して無償供与3億ドル,財政借款2億ドル,商業借款1億ドルで落着すると,漁業問題も平和線〔李ライン〕の廃止と韓国領海の縮小という線に傾くようになった.1963年末の第5代大統領選挙で勝利し,民政委譲後の執権に成功した朴正熙は,1964年はじめから,政権の興亡をかけても韓日会談を妥結する,という決意を強調して最後の作業に拍車をかけた.
(註:caption) いわゆる金・大平会談.
秘密メモをやりとりした末に協商を妥結した金鍾泌と大平正芳が,満足したように微笑を浮かべている.こうして日本は,再び韓国侵略の橋頭堡を築いたのである
 しかし,軍部政権の陰謀的で屈辱的な韓日会談の推進に抗議する運動が大衆的に展開され始めた.1964年3月に入って,政党と各種の社会団体および愛国的人々が対日屈辱外交反対汎国民闘争委員会などを結成し,全国遊説に突入した.続いて,3月24日にソウル大文理学部の校庭では,民族反逆的「韓日会談の即時中止」「東京滞在中の売国的政商の即時帰国」「平和線死守」などを要求する数百余名の学生集会が開かれ,帝国主義および民族反逆者の人形の火あぶりの刑が執行され,街頭デモに移っていった.5000余名の学生と数万人の市民が参加したこの日の街頭デモは,4・19〔四月革命〕以後最大のもので,民政委譲後最初のものだった.軍政開始以来累積されて来た不正腐敗,社会経済的不安,情報強圧政治に対する反発が,反日という旗幟のもとに噴出したのである.学生運動を先頭にした大衆的抗議の熱気は,韓日会談の3月妥結,協定条文の4月作成,協定の5月調印という政府側の日程を狂わせてしまった.
 その後,徐々に反政府的性格が強くなっていく学生運動は,1964年5月20日,ソウル大文理学部に数千人の学生と市民が雲集した中で,「五月〔5・16〕軍部クーデターは四月〔4・19〕の民族・民主の理念に対する全面的な挑戦であり,露骨な大衆弾圧の始まりであった」と宣言し,軍部政権が軍政初期に掲げていた「民族的民主主義」に対する葬礼式を挙行した.これを契機として再び火のついた学生運動は,同年6月3日には,1万余名の群集がソウルの中心街を覆う中で,買弁勢力を糾弾し,朴正熙の退陣を要求するに至った.韓日会談の妥結はさておいて,軍部政権の存立自体が怪しくなった状況に,朴正熙は,ヘリコプターに乗って青瓦台〔大統領官邸〕に飛んできた駐韓米大使や駐韓米軍司令官の助言を聞いた後,その日の夜8時を期してソウル市一円に非常戒厳を宣布し,大々的な弾圧を開始した.この日の非常戒厳は,その後,反対勢力に対する弾圧に軍隊を直接動員する常套手段の始まりになった.
 国民の抵抗を武力で鎮圧した軍部政権は,1964年末から韓日会談を再開し,1965年春に韓日基本条約と各種付属協定を次々と仮調印した.そして,ついに1965年6月22日,本調印に至り,同年8月14日に共和党議員だけが出席した国会で批准してしまった.この過程でも汎国民闘争委員会と学生運動を中心とする調印反対闘争,批准阻止闘争,批准無効化闘争が熾烈に展開された.しかし政権による弾圧が徹底し,野党が分裂して大衆的闘争を持続的に引っ張っていく組織的基盤がない状態で,結局,挫折してしまった.
(caption) 韓日会談反対の学生デモ隊の激烈な座り込み光景.
6・3事態とも呼ばれるこの日のデモは,朴政権の存立を脅かすほどの国民的盛り上がりの中で展開された
 韓日協定が締結された1965年は,世界のすべての耳目がベトナム戦争に注がれていた年でもあった.アメリカは,韓日会談の締結を通した東北アジア地域同盟の土台作りに満足せず,一歩進めて,韓国軍をベトナム戦争に投入することを希望した.アメリカは,1964年のトンキン湾事件を契機にして,ベトナム戦争に対する介入を拡大し,1965年2月に全面北爆を開始し,兵力と戦費を無制限に投入し始めた.しかし,莫大な軍事費の支出によるインフレとドルの価値の下落にもかかわらず,勝利の兆しは見えず,アメリカ国内の反戦運動は反体制運動に進展し,世界の世論は一斉にアメリカを批難(註:ママ)した.これに対してアメリカは,韓国軍のベトナム派兵を要請し,その代価として,韓国軍の戦力増強と経済開発とに必要な借款を供与すると約束した.
 もともと韓国は,ベトナムに派兵しなければならないいかなる条約上の義務も負ってはいなかった.しかし朴正熙は,アメリカの政治的・軍事的支持の強化と経済的支援の拡大を期待し,韓国軍のベトナム派兵を推進した.野党はベトナム派兵を請け負い戦争だと批難したが,すでに外勢の庇護のもとに汎国民的な韓日会談反対闘争を武力で粉砕した経験から自信を強めていた軍部政権は,国民の意思にはかかわりなく,反共を名分に派兵を強行した.1965年2月に後方支援部隊2000人を派遣したのをはじめとして,同年7月には猛虎部隊が,1966年には白馬部隊が派遣され,総派兵人員は5万5000人に達した.これとともに,労働力輸出・商品輸出・軍納などを通した「ベトナム特需」は,1960年代末~70年代初め,外貨獲得の主要な源泉になった.しかし,韓国の若者の犠牲と非同盟外交への打撃の代価として得られた経済的利得は,主として軍部政権の物質的土台を強化するのに回された.
 韓日協定とベトナム派兵を通して,朴政権は反対勢力に対する大々的弾圧に成功した.そして,社会の各分野に対する組織的統制をいっそう強化した.韓日協定を通した日本資本の導入とベトナム派兵を通したアメリカ資本の導入は,経済開発計画の推進の大きな助けになった.のみならず,朴政権に新しい政治資金源を保障した.外資による高度成長は,経済規模の急激な拡大をもたらすことで,当時,激しい社会変動の渦中にあった大衆に,経済成長への期待感を植え付けた.朴政権は経済成長の成果を活用し,大衆の政治意識を眠らせて,自分の脆弱な正当性を補強しようとした.
(caption) 代理戦争遂行のためにベトナムに派遣される韓国軍

韓国民衆史研究会 編著,高崎宗司 訳,「韓国民衆史 現代篇 1945─1980」,木犀社,1987年, pp. 173~179




 まぁ,著者が著者であるだけに,
  • 80年代も半ばを過ぎた頃に書かれた本であるにもかかわらず,日韓国交樹立・ベトナム派兵が結果としてもたらした経済的発展について「得られた経済的利得は,主として軍部政権の物質的土台を強化するのに回された」と述べるにとどまり,国民生活の向上については徹頭徹尾過小評価していること
  • 商業借款1億ドルという数字の算出の仕方に疑問がある(3億ではなかったか?)
などの細かい問題点をあげつらえばきりがありませんが,それ以前に 以下の3つの点が目を引きました.

※ 政治面・経済面を問わず,政府の政策に対する不満という あくまで国内問題である現象が,反日をいわばダシにして大衆暴動へと発展して行く過程を,他ならぬ学生運動側の人物が(何やら妙に誇らしげに)自認していること.

※ 反共を国是としていた朴政権と対立する立場にある学生運動が,むしろ「平和線死守」すら標榜して政府の「屈辱的・売国的」対日外交を非難するなどの民族主義的性格を濃厚に帯びていること.

※ 「批准無効化闘争」などという語にも見られるように,彼ら学生運動は ひとたび締結された外交上の取り決めというものの重みを全く理解していないらしいこと.この頃既にかの国には「魔法のローソク」があったようだ.

 「韓国では民衆の不満の目を国外に逸らす為に反日が利用される」という現象については 周知のように日本に於いてもしばしば語られますが,そうした現象を考える上で,一概に「韓国大衆の反日ナショナリズムは政府が大衆に吹き込んで醸成されたもの」という図式ばかりではとらえ切れないようにも見えるわけです.
(ただ,上の記述は あくまで1945年の「光復」から15~20年も経た後の韓国人の姿であること,ならびに 上述のように この文を書いている「韓国民衆史研究会」という団体からして 80年代の学生運動のリーダー連中の集まり──つまり 文中で「平和線死守」を唱えていた連中の直系の子孫にあたる──であること,以上2つの点は割り引いて読まなくてはならないでしょうけれど)
 いずれにせよ「韓国で反日が大衆受けしやすい理由」の一端を物語っているように思えましたので,長文ですが引用してみました.
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by xrxkx | 2004-08-16 16:25 | ここが変ニダ韓国人