10/17の小泉首相の靖國参拝の件,
此処数日来あちらこちらのblogを拾い読みして来た中で,
それなりに読ませる文章になっていながら
その主張に於いてどうしても腑に落ちないのが一つありましたので,
所感など書き残しておこうかと.
首相といえども、いや首相であるからこそ、司法府の判断を無視するわけにはいかない。8月15日ではないことや「私的参拝」であることを非難する向きもあるかもしれないが、今回、首相が取った行動はやむを得ない。
むしろ、中・韓が強く反発し、国内の親中派、反小泉派がいっせいに非難の声をあげる中、ここで我々がなすべきことは、小泉首相の行為を擁護することだ。
ここで、原則論を楯に不用意に批判することは、利敵行為になる。そのことをわきまえてほしい。
(後略)
依存症の独り言 - 首相の靖国参拝を擁護せよ! (10/17)
上の文章には続きがあるので目を通して頂きたいのですが,
この筆者もまた靖國参拝に対する支那朝鮮の不当な容喙に反駁する立場であるには違い無さそうです.
そこのところは踏まえた上で敢えて言いますが──.
「政争は水際まで」と言いたいならそれ自体は理解できなくもない.
但しそれはあくまで国内の参拝反対派──理由の如何を問わず 総論として内閣総理大臣たる者による参拝全般に反対する立場の人々──に対して言うべき言葉であって,
各論として今回の小泉首相の参拝の仕方──日程の面であれ作法の面であれ公私の別の面であれ──を批判する
(私もその一人ですが)
立場の人々に向けるのはお門違いです.
そもそも「原則論を楯に不用意に批判」とは何事でしょう.
靖國から「原則論」を取ったら何が残りますか.
メディアの報道ぶりを見ていますと,
小泉首相の靖國参拝を肯定する側であるか否定する側であるかを問わず,
ややもすると靖國参拝を「国益」とやらの観点から論じる風潮が見受けられます.
上で引用した擁護論なども どうやらそうした立場に端を発するものであるように私には見えます.
敢えて言いますが,それ自体が誤りです.
やや脱線.
かつては恰もそれ自体がタブーのようですらあった「国益」という言葉が,
戒めを解かれるや否や 国家のありようを論じるに尤も相応しからぬ輩の手垢にまみれ,
今ではすっかり
「他国との間に波風を立てないこと」
もしくは
「周辺諸国への配慮」
と同義であるかのように用いられているのは,
笑うに笑えない冗談というべきでしょう.
この点は何も靖國に限ったことではなく,
自衛隊の海外派遣その他「国際貢献」という名の対米貢献にしてもそうですし,
昨今喧しい東シナ海ガス田の問題で 支那による既成事実作りに一方的に押され続け,
EEZ確定を先送りにしての共同開発案を今度は日本から逆提案する形になってしまっているのもそうです.
特に後者などは如何に方便とはいえ外交的には邪道の極みです.
靖國は日本という国家の利益に関する事柄ではなく,
日本という国家の──そして当然ながらその国家の形成に参与する私たち国民一人一人の──名誉と尊厳に関する事柄です.
ここを譲ったらもはや日本が日本でなくなるというぎりぎりの一線の問題です.
敗戦後の占領統治以来この国を精神的去勢状態に据え置いて来た所謂東京裁判史観と戦い これを克服する上での 原理原則の問題です.
そこのところを履き違えているから,靖國参拝が如何にあるべきかを専ら支那・朝鮮による容喙との対立軸上で捉えようとする おかしな論理になる.本来日本国民のものである靖國を,外国が何を言っているかを通してしか眺められなくなる.
原理原則というものは「楯」どころか核心です.
その場その場の政治的動機によって濫りに枉げてはならないものです.
一高裁レベルでの「違憲判断」への「配慮」なども余計なこと──早い話が
「もし私の参拝が違憲だというなら,寧ろ憲法の方が間違っていると私は思う」
くらいの事は言ってみせるべきです──ですし,
ましてや支那や朝鮮の如き自称「日本軍国主義の侵略の被害国」への「配慮」などは微塵もあってはなりません.
私が前回「ただ行けばよいというものではない」と述べた所以です.
敢えて言いますが,その意味では,「国益」の観点から靖國を論じたがる自称保守派や 戦ってもみないうちから「落とし所」を探ろうとする自称リベラルに比べれば,首相の靖國参拝を「憲法違反だ」「軍国主義賛美だ」云々の理由で糾弾している左巻きの言う事の方が,──気の毒にもその議論の出発点で何か間違えているだけで──彼らは彼らなりに通すべき筋を通そうとしている分だけ まだしもマシに思えます.
最後に,これは別に皮肉を言うわけではありませんが,
小泉首相自身が靖國参拝をあくまで「個人の心の問題」と位置付けている結果として,
靖國に関する限り 外野による「国益」云々の議論が悉く空振りに終わっているのは,
小泉首相本人の意図が何処にあるかによらず 評価すべき姿勢だと言ってよいでしょう.
但し,「心の問題」といっても,
それは小泉首相が再三繰り返している所の「個人の信念」などでは断じてなく,
日本国民の公心に属すべき問題ですが.