対中「強硬」姿勢は果たして「愚」か
 前にも何度かご紹介したことのある「天木直人・マスメディアの裏を読む」の11/30の記事に,「対中強硬姿勢の愚」という文章がありました.

 氏の基本的立場であるところの
 私は米国かアジアかといった二者択一の態度は間違いであると考える。その意味で中国との関係を過度に重視することは、あたかも日米同盟を絶対視することと同じように不適当だと思う。
 ここまでは私も全く同感.全方位外交 おおいに結構.
 ただ,氏の説かれるその必要性の出発点が 自称「被害者」の根拠も無い「心の痛み」なるものへの譲歩・理解・尊重にあるらしいという点に於いて,本論は 当blogでも幾たびとなくとり上げて来たような支那人や朝鮮人の甘えやタカリを 海のこちら側から援護する,一種の朝日イズム以上の何物でもなく,私としては到底共感し得るものではありません.本文中で引用されている小泉発言などは,その最たるものです(もともと小泉首相の「靖国参拝ノーコメント宣言」を対中譲歩として反発する「自民党タカ派議員や保守的言論者たち」を批判していた筈が,最後の2段落だけ小泉首相本人の対アジア姿勢への批判にスリ替わって行ってしまっているのはご愛嬌だが).

 さて,その「対中強硬論」なるものの例を 氏が挙げておられるくだりですが,
 しかし政治家といわず民間人といわず対中強硬発言を繰り返す人たちの考え方には根本的な誤りがある。なかでも11月18日付けの産経新聞「正論」欄に渡部昇一上智大学名誉教授の次の発言には驚かされた。
「・・・日本が大戦争に突入したのは生存の為の自衛戦争であったのみならず、アジアの解放、諸民族の完全独立、植民地状態からの復興であり・・・」などと述べている。発言をいくら産経新聞紙上であるといっても公器ともいうべき新聞で掲載する積極的意味があるのかどうか。
 こうした発言を「公器ともいうべき新聞で掲載する積極的意味」についてですが,大いにあるでしょう.少なくとも上記の渡部氏の「アジア解放論」は「わたくし」の意見ではなく「おおやけ」の意見です.読者に多様な考え方を提示し,公論を喚起するのが公器たるものの役割でなくて何なのでしょう.
 上のような説が気に入らない読者は 産経新聞を購読するのをやめればよいだけの話であって,全ては読者の自由な取捨選択に任されるべきものであり,それ以上でもそれ以下でもありません.
 同様に,読者に迎合するか バッシングを覚悟の上で敢えて自己の是とする論説を世に問うかもまた,「公器」たるものの自己責任に於いて行われるべきことです.

 もしも上の渡部説および類似の主張が「日本の右傾化策動」だとか「軍国主義の復活」だとか「アジア蔑視」に該当してケシカラン,慎めというのであれば,同様に支那・朝鮮の一方的・独善的な言い分をそのまま垂れ流すだけの反日勢力の広告塔の如きメディアもまた野放しにされてはならない筈ですが,実際これまで日本の言論界のありようはどうであったかは 改めて考えてみるまでも無いでしょう.自由・民主・人権その他の守り手を標榜する人々の側が,却ってファッショまがいの言論封殺に対して鈍感になってしまっている所以です.
 天木氏のblogを一読なさればお分かりのように,氏はアメリカの対中東政策,とりわけイラク占領統治を日夜厳しく糾弾しておられる方ですが,上の渡部説および類似の論説が公の場から排除されるが如き事態を是とされるならば,そうした態度は他ならぬ米軍占領統治の一大産物である墨塗り教科書の発想と軌を一にするものであり,その意味に於いて 氏の言説は その出発点に於いて甚だしい自家撞着に陥っていると見なさざるを得ません.

 さて,同文章の後半の組み立ては次のようになっています:
 先の太平洋戦争の評価についてここで議論するつもりはない。しかし少なくとも次の二点は指摘しなければならないと思う。
 その一つは日本が中国を軍事力で植民地化したまぎれもない歴史的事実である。
  (中略)
もう一つ忘れてはならないのは国際政治の冷徹な現実である。日中の分断、アジアの離反こそ米国の戦略である。(後略)
 「先の太平洋戦争の評価についてここで議論するつもりはない」「当時は世界全体が帝国主義の時代であったとか、南京大虐殺は誇張であるなどという議論をいくらしてみたところで、日本が犯した誤りが正当化されるはずはない」といった《議論そのものの放棄》が この さして長くもない文章中に2度現れますが,このこと自体が 自称「被害国」の主張の最も根拠薄弱な部分に対して無条件の免罪符を与えんとするものに他なりません.誤った前提からは誤った結論しか出て来ないのです.冷やかしを言うわけではありませんが,個々の史実の徹底的な検証なしに「日本が犯した誤り」なるものを断罪しようとする安易な態度は,氏がここで擁護しておられる支那で近頃しばしば取り沙汰される「歴史を鑑とする」姿勢にもそぐいません.

 また,氏に限らず,どうも対中「強硬」論なるものに批判的な立場に立つ人々は 本文にあるような「逆の立場」論がお好きなようですが,そうしたwhat-ifシナリオが──三文作家のネタとしては有用であるにせよ──歴史および歴史認識を語る上で何らの意味も持ち得ないものであることは,並の日本人なら斉しく認識するところです.
 そもそも考えてみていただきたい.支那人は事あるごとに自らを「侵略の被害者」と位置付けようとしますが,その他ならぬ支那人が清仏戦争や日清戦争で何をしましたか.彼ら支那人が日本を侵略国と呼ぶなら,少なくとも北清事変の頃までの清国などは日本と並んで「侵略競争」の堂々たる一翼を担っていたのです.
 もし支那人の主張を是とするなら,支那は彼らが言うような「被侵略国」ではなく 単なる「落伍した侵略国」であったということになります.
 29日付日経新聞のコラム「核心」に、田勢康弘がこう書いている。
「中国の武大偉外務次官は黒竜江省の出身である。その武氏がまだ若い頃(会談のなかで)、筆者(田勢)も同郷だと言ったことがある。そう言ったとたん、彼の表情に一瞬緊張感が走った。メガネの奥の柔和な目が、厳しく光り、互いの親愛の情を断ち切ったように見えた。・・・筆者の父親は関東軍の兵隊だったのだ・・・」。憎悪の感情が人の心から消え去るには長い年月が必要であるに違いない。そこに気づかない限り日中関係(日韓関係も)の真の安定化は望めない。
 まず,「憎悪の感情」が「人の心から消え去る」のを待つには,今回私たちが対峙している相手は少々手癖が悪すぎたようです.何しろ つい1ヶ月足らず前にも かの国の人々は私たちの領海を侵犯し,謝罪らしい謝罪すらしていません.これは上の「逆の立場」論のようなwhat-ifシナリオではなく 現実に起こった,未だ記憶も生々しい大事件です.日本が普通の国であれば戦争に至ってもおかしくないほどの,です.
 また,武大偉といえば先のサッカーアジア杯の頃まで駐日大使を務めた人物ですが,あの反日騒ぎの最中,日本大使館の車輌が損壊されるほどの暴動が起こっても,彼はやはり謝罪らしい謝罪をしようとはしませんでした.そうした人物に対し「互いの親愛の情を断ち切ったよう」な眼差しを向けたいのは むしろ日本の民衆の側でしょう.
 武大偉個人の顔色を伺い,相手の「憎悪の感情」などに一喜一憂する態度を,「核心」の著者である田勢氏なる人物は大いに恥じるべきです.

 最後に「国際政治の冷徹な現実」について.「日中関係が緊張している限り米国は安心できるのである」というくだりは私も同感ですが,日中関係の緊張をもたらしている原因は日本にではなく中共の態度にあります.
(それとも先の領海侵犯事件などは,あれは胡錦涛がアメリカを安心させたくて起こしたのでしょうか?)
 「国際政治の冷徹な現実」を見据える上で,相手国の感情だとか「被害者」の「心の痛み」だとかを殊更あげつらうほど的外れなことはありません.

 相手国との関係の安定化は目的ではなく手段です.外交の究極の目的は 他国をして自国の利益に適う行動を取らしめることにあるのは自明の理です.外交とは砲弾の代わりに言葉を撃つ戦争であるべきです.ナイチンゲールは外交官たるべきではありません.その意味に於いて,氏が官を辞し下野なさったのは,氏御自身の精神衛生にとっても 日本国の国益にとってもプラスであったでしょう.
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by xrxkx | 2004-12-03 21:51 | 時事ネタ一般